体専卒業後(1938-2007)
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1938年(昭和13年)に体専を卒業後、埼玉県立秩父高等女学校(秩父高女、現・埼玉県立秩父高等学校)に就職した。「東京オリンピックに出場するまではお嫁に行かない」という意気込みで練習を続けたが、同年7月15日に東京オリンピックの開催返上が発表され、10月8日に出場予定だった全日本東西対抗陸上競技会を病欠し、選手を現役引退した。秩父高女の職は1年で辞めて家族の元に帰り、芝浦製作所(現・東芝)に事務員として就職した。 終戦後間もなく、織田幹雄が仲人を務めて井上利見と結婚し、2男1女の母となった。子供たちもスポーツ好きになり、野球やテニスで活躍した。美代子は陸上競技との関わりを続け、1980年(昭和55年)に吉岡隆徳の呼びかけで東京マスターズ陸上競技連盟(仮称は東京マスターズ陸上クラブ)が設立されることになると、発起人の1人に名を連ね、正式発足した時に理事に就任した。連盟は陸上競技の第一線を退いた選手が年齢・体力に応じて競技を楽しみ、選手時代の思い出を語り合う組織として設立し、西日本では同種の組織が先行していた。 2007年(平成19年)4月28日、病気のため逝去した。88歳没。
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