陸上競技との出会い(1911-1915)
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その後、野口を心配した埼玉師範の教師の勧めで、東京高等師範学校(東京高師、現・筑波大学)の補欠募集を見て応募し、1911年(明治44年)4月、文科兼修(地理歴史)体操専修科に進学する。スポーツの腕前に自信があったことと、体育だけでなく文科(地理歴史)を兼修できることが決め手となった。兼修とは言え、地理歴史の専修生と同じ授業・同じ試験を受ける必要があり、体育の方でも柔道・剣道ともに最低2段にならねばならないという厳しいものであったことから、24人いた同期が卒業時には12人に半減した。入学してすぐに春の校内長距離競走で1学年先輩の金栗四三と競り合うも、ゴールの手前でレースを中断したため6位となり、同年10月6日の秋の校内長距離競走では金栗に次ぎ2位となった。こうした活躍が校長の嘉納治五郎の目に留まり、羽田運動場で開催されるストックホルムオリンピックの予選会への出場を勧められた。11月19日の予選会ではマラソンで4位に入賞したが、日本代表に選ばれたのはこの時優勝した金栗と短距離走の三島弥彦の2名であった。日本代表にはなれなかったものの、これが野口の陸上競技界入りを果たす契機となり、本格的に競技に打ち込むことになった。野口自身は、なぜ金栗・三島がオリンピックで敗北したのか、日本国外のスポーツとはどんなものか、という疑問を持ったことが陸上競技に向かう契機となったと述懐している。 1913年(大正2年)11月1日・2日に陸軍戸山学校で開かれた第1回全国陸上競技大会(後の日本陸上競技選手権大会)には400m継走、走幅跳、棒高跳にエントリーし、棒高跳で7フィート10インチ(2m39)をマークして優勝した。陸上競技以外に剣道にも精を出し、1914年(大正3年)6月には4段に昇段した。また水泳に関しても水府流を習得し初段に列している。 高師時代の野口には経済事情が付きまとい、何度も退学を決意するも、嘉納校長と峰岸舎監の物心両面からの支援に励まされ、無事卒業を果たした。
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陸上競技との出会い
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中学時代は野球部で投手をしていた。チームは県大会に出場するも早々に敗退するようなレベルだったが、東海地区の野球の強豪校からの誘いもあったことなどもあり、高校球児として甲子園を目指すつもりでいた。野球に関心を持ったきっかけは漫画『巨人の星』への憧れであったという。 ところが、1年生時に校内の5キロ走大会で優勝したことから、陸上部より懇願されて大会に出るようになる。市の陸上大会の2000mで優勝、続く県大会でも当時の三重県記録で優勝したことがきっかけで陸上競技に魅力を感じるようになり、陸上競技の強豪校・四日市工業高校への入学を決意する。入学直後から中距離走で頭角を現し、高校1年で山形インターハイ800mに出場し、3位に入賞。高校2年生時には地元・三重インターハイの800m、1500mで優勝。千葉国体1500m、5000mで優勝。3年生時には福岡インターハイにて800m・1500m・5000mの中長距離三冠に挑戦したが、5000mで中村孝生(前橋工)のロングスパートに敗れ2位に終わり、2年生時同様に2冠に終わる。しかし、800mで予選・準決勝・決勝の3レース、1500m、5000mは予選・決勝の2レースと4日間で合計15400mを走破しての2種目の優勝と1種目の準優勝の成績に対し、日本中長距離史上、特筆される才能を持った好選手と評価されていた。茨城国体では、前年度に続き2年連続で1500m、5000mの二冠を達成。 全国高等学校駅伝競走大会では3年連続で「花の1区」(10km)に出場し、2年生時には区間賞を獲得した(ただし、この年の第1区では誘導員のミスでスタート後のトラック周回が1周少ない9.6kmとなり、記録は「参考記録」扱いとなった)。正式な区間記録をねらった3年生時は、途中で腹痛に見舞われて後退し、2年連続の区間賞獲得もならなかった。 大学進学に当たり関東の学校の誘いも多かった。箱根駅伝最多優勝・最多出場を誇る中央大学への入学が決まりかけたが、早稲田大学OBからの勧誘で、(瀬古の父は中央大学へ頭を下げ)早稲田大学の一般入試(運動部員に対する特別優遇の推薦入試等は当時無かった)を受験した。しかし合格に至らなかったため、高校を卒業後、南カリフォルニア大学へ在籍しながらの「浪人生活」を送り、翌年早稲田大学教育学部に合格した。
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