エスビー食品
エスビー食品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:16 UTC 版)
2008年4月、エスビー食品に入社した。この年は箱根後の体調不良と左足の疲労骨折により、5000mの参加標準記録を突破していた北京オリンピックやその代表選考会を兼ねた日本選手権への出場はかなわなかった。また、この年の3月まで中央大学陸上競技部駅伝監督として上野の指導に当たっていた恩師・田幸寛史が4月、エスビー食品陸上競技部監督に就任。引き続いて上野の指導に当たることとなった。 2009年1月、第14回全国都道府県対抗男子駅伝で7区アンカーを務め、兵庫県代表の北村聡の追走を許さず、ゴール前には手を合わせる仕草を見せたり大きくガッツポーズをしたりし派手にゴール。自身3度目となる長野県優勝を飾った。またふるさと選手制度の関係により、長野県代表として佐藤悠基と共に出場できる最後の都道府県男子駅伝となった。4月、アメリカ合衆国で開催されたマウント・サック・リレー1500mにおいて3分42秒51の自己新記録を残した。その後もバークレー招待、カーディナル招待(共に5000m)と各地を遠征。帰国した後5月30日ゴールデンゲームズinのべおかの5000mにおいて13分26秒31をマーク、世界選手権参加標準記録B(13分29秒00)を突破した。 6月25日、広島で行われた第93回日本選手権5000mに出場。オープン参加のビタン・カロキ が引っ張る展開を中団にて待機、中盤には先行していた竹澤健介を交わし2番手に上がるとそのまま押し切り13分41秒04のタイムで優勝した。この結果5000mで世界陸上選手権ベルリン大会日本代表に選出された。また6月28日には1500m決勝に出場し、スタート直後こそ最後方に控えたものの外から進出して先頭を奪うと、同種目4連覇中の小林史和らを抑え自己タイ記録の3分42秒51のタイムで逃げ切り、同選手権2種目優勝を飾った。この日NHKのゲスト解説を務めていた朝原宣治はこのレース展開を、日本の1500mではなかなか見られない駆け引きで見ていて面白かったと評した。また1500m・5000mの2種目優勝は、1985年第69回日本選手権の大塚正美以来となる24年ぶりの快挙であった。 世界の舞台に対する思い入れが強く、「練習が出来なくて何度泣いたか分からない。やっと、やっと、やっとです」と語り、年初には「ベルリンでは、無謀と言われても積極的に先頭に出て引っ張りたい。『世界の壁』は体感しないとわからないですから。その結果、予選で落ちてもかまわない。12年のロンドン五輪を見据えた戦いをしたい」と、故障により逃していた世界への目標を語っていた。8月20日世界陸上選手権男子5000m予選に出場。日本選手権後に体調を崩し十分な状態ではなかったが、タイムで拾われることを狙ってスタートから先頭に飛び出し、1000m付近まで北京五輪王者のケネニサ・ベケレ(エチオピア)らを相手に3秒以上引き離した。しかし、「1000メートルで体が動かなくなり」集団に吸収されると、2000mすぎに最後方まで転落。14分30秒76の16位でゴールし予選敗退の結果となった。 2010年、第15回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会の長野代表を支えた後、千葉国際クロスカントリー大会から始動。4月兵庫リレーカーニバル1500mではジョナサン・ディク(日立電線)に次ぐ2位となった後、5月3日の静岡国際陸上競技大会5000mでは5位。続く5月8日国際グランプリ陸上大阪大会1500mでは3分40秒83の自己新記録を樹立して3位に入った。6月の第94回日本選手権では1500m・5000mの連覇が期待されて出場し、4日の1500m予選1組を1位通過。5日の1500m決勝では前年と同様のレース展開で中盤からの独走を狙ったが小林史和が追走してこれを許さず、一団にまとまる展開となり村上康則らに交わされて3位。6日の5000mでは後方から進めるレース展開で上位を狙ったが中盤で遅れて11位となった。8月14日、ベルギー・ルーバンで開催された競技会の1500mにおいて日本歴代8位となる3分39秒52を記録した。
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