ザ・ベストテン
ザ・ベストテン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:46 UTC 版)
『ザ・ベストテン』(TBS系)には第1回から3人が揃って登場し、最初(第10位)の登場歌手は野口だった。 西城は「ブーツをぬいで朝食を」以降22曲(154週)登場し、ついで郷が「禁猟区」以降15曲(117週)、野口は「風の駅」以降9曲(41週)登場した。ちなみに同じ期間(1978年1月19日から1989年9月28日まで)のオリコンチャートには、西城は17曲、郷は10曲、野口は3曲がトップ10入りしている。
※この「ザ・ベストテン」の解説は、「新御三家」の解説の一部です。
「ザ・ベストテン」を含む「新御三家」の記事については、「新御三家」の概要を参照ください。
ザ・ベストテン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:39 UTC 版)
『ザ・ベストテン』では第1回から常連として出演し、斬新な衣装や振付けで番組を盛り上げ、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、番組史上一例の満点(9999点)を2週連続で獲得するなど番組の立ち上げと隆盛に貢献した。オリコンとともに歌謡界をデッドヒート化させた当番組に於いては、毎回真剣勝負で挑んだ。「僕らは人よりいかに目立つかを考えていた。先物はだいたい僕か沢田研二さんがやっていた」などと話し、「後の世代の人たちは違うかもしれないけど僕らはそう」「人が歌ってるときはステージをじっと見ていてお喋りどころじゃなかった。"あの衣装の生地はいいな"とマネージャーに言ったりして、カメラが振られると談笑しているポーズを取った」などと話している。笑い話としては、1982年5月13日の放送回で、黒柳徹子から「最近どんなジャンルの本を読まれていますか?」と聞かれて、「SMが好きです」と答えたことがある。黒柳が(当時の文献では久米宏)すかさず「SFのことね」って必死にフォローし、出演者も大爆笑だったが、イモ欽トリオの長江健次だけは意味が分からず戸惑っていたといわれる。放送を生で観ていた坂本ちゃんは生々しくてドキドキんちょで、それ以来、ヒデキの"ギャランドゥ"に心を奪われたと話している。
※この「ザ・ベストテン」の解説は、「西城秀樹」の解説の一部です。
「ザ・ベストテン」を含む「西城秀樹」の記事については、「西城秀樹」の概要を参照ください。
ザ・ベストテン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:45 UTC 版)
「一気!」の歌唱中にテレビカメラを倒している。石橋は弁償を考えたが、テレビ局にとってはこのようなアクシデントもそう珍しいことではなく、また故意にやったわけではないと判断され、結局は保険によって解決された。 1985年10月17日の400回記念、日本平(静岡市清水区、当時は清水市)からの生放送に出演。とんねるずがスタッフの担ぐ御輿の上に乗り、客席の間の通路を通ってステージに向かう演出だったが、神輿に観客が殺到して衣装を引っ張るなどしたために石橋が御輿に乗れず、激高して観客に掴みかかる事態にまでなった。ステージ上でも石橋は怒りが収まらず「ふざけんじゃねぇぞ!この野郎!!」、「てめぇら最低だ!!」と吐き捨てて衣装の飾りを客席に投げつけたり、怒鳴り声で「雨の西麻布」を歌った。なお、この放送翌々日に放送された『オールナイトフジ』にて、番組宛に数百本の苦情電話が寄せられたことを石橋が明かしている。当時の『オールナイトフジ』は静岡にもネットされており、地元の視聴者への謝罪も同様に本人達から行われていた。 1987年10月1日の500回記念、仙台からの生放送に出演した時、この500回記念出たさに、シングル「おらおら」が初登場時にランクインするよう発売日を合わせたことを公言している。当時出演していたラジオ番組『オールナイトニッポン』でも、リスナーにランクインできるよう、レコードの購入と番組宛てにリクエストを送るよう求めていた。
※この「ザ・ベストテン」の解説は、「とんねるず」の解説の一部です。
「ザ・ベストテン」を含む「とんねるず」の記事については、「とんねるず」の概要を参照ください。
ザ・ベストテン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 02:01 UTC 版)
「ザ・ベストテン 中森明菜 プレミアムBOX」の記事における「ザ・ベストテン」の解説
中森が『ザ・ベストテン』でランクインしたシングルは「少女A」、「セカンド・ラブ」、「1⁄2の神話」、「トワイライト -夕暮れ便り-」、「禁区」、「北ウイング」、「サザン・ウインド」、「十戒 (1984)」、「飾りじゃないのよ涙は」、「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」、「赤い鳥逃げた (「ミ・アモーレ」別歌詞&ラテン・ロング・ヴァージョン)」、「SAND BEIGE -砂漠へ-」、「SOLITUDE」、「DESIRE -情熱-」、「ジプシー・クイーン」、「Fin」、「TANGO NOIR」、「BLONDE」、「難破船」、「AL-MAUJ (アルマージ)」、「TATTOO」、「I MISSED "THE SHOCK"」、「LIAR」の全23曲である。「赤い鳥逃げた」はランクインのみで、歌唱披露はされなかった。 中森がこの番組に初登場した楽曲は、2枚目のシングル「少女A」で、1982年9月16日放送時であった。続く、3枚目のシングル「セカンド・ラブ」が8週連続となる1位を獲得、以降、通算17曲ものシングルを首位に送り込み、歴代1位の記録を獲得した。また、1位獲得週数においても歴代1位となる通算69週という記録を獲得している。1986年発表のシングル「DESIRE -情熱-」では33位から1位へのランクアップを遂げており、番組開始以来となる記録となった。 さらに、毎年末に行われた年間ベストテンでは、1983年の「1⁄2の神話」(年間8位)と「禁区」(年間10位)、1984年の「十戒 (1984)」(年間8位)、1985年の「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」(年間3位)と「SAND BEIGE -砂漠へ-」(年間8位)、1986年の「DESIRE -情熱-」(年間2位)、1987年の「難破船」(年間7位)、1988年の「TATTOO」(年間9位)の通算8曲がランクイン、1983年から1988年の6年連続でランクインしたアーティストは中森だけである。
※この「ザ・ベストテン」の解説は、「ザ・ベストテン 中森明菜 プレミアムBOX」の解説の一部です。
「ザ・ベストテン」を含む「ザ・ベストテン 中森明菜 プレミアムBOX」の記事については、「ザ・ベストテン 中森明菜 プレミアムBOX」の概要を参照ください。
「ザ・ベストテン」の例文・使い方・用例・文例
固有名詞の分類
- ザ・ベストテンのページへのリンク