猿渡武嗣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 01:02 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動猿渡 武嗣(さるわたり たけつぐ、1942年12月23日 - 1982年7月21日 )は、日本の陸上競技(中距離走)選手。アジア競技大会優勝2回[1]、オリンピック代表2回(1964年東京、1968年メキシコシティー)[2]、日本陸上競技選手権大会男子3000m障害5連覇。
経歴
大学在学中に1964年東京オリンピックに出場。1965年に八幡製鐵に入社[1]。1968年メキシコシティーオリンピックに出場した。
1970年に八幡製鐵は富士製鐵と合併して新日本製鐵(新日鉄)となり、新日鉄八幡所属となる[1]。
1975年に現役選手を引退、東京本社厚生課に配属され、社員の文化・スポーツ活動推進に従事した[4]。1980年に室蘭製鐵所厚生課長として赴任[4]。ルポライターの岡邦行によれば、新日鉄八幡は陸上・水泳の実業団チームを擁しオリンピック選手も在籍する環境であったのに対し、新日鉄室蘭(旧富士製鐵系)はそうした環境になく、元オリンピック選手に対する冷ややかな目に抗するために、猿渡は激務に身を投じたという[4][1]。
1982年7月21日、出張のため滞在していた東京のホテルで睡眠中、心不全のため急死。39歳没[4][1]。
脚注
- ^ a b c d e f g 岡邦行 (2020年7月10日). “東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン “オリンピックのサル”なる汚名が猿渡武嗣さんの死期早めた”. 日刊ゲンダイ. 2021年5月4日閲覧。
- ^ “猿渡武嗣”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年5月18日閲覧。
- ^ 中澤 2010, 44頁.
- ^ a b c d e 岡邦行 (2020年7月9日). “東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン 猿渡武嗣さんは妻に笑われた占いの「39歳で死ぬ」が現実に”. 日刊ゲンダイ. 2021年5月4日閲覧。
関連項目
参考文献
- 中澤篤史「オリンピック日本代表選手団における学生選手に関する資料検討」『一橋スポーツ研究』第29巻、2010年、 37-48頁。
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