猿渡武嗣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/12 03:18 UTC 版)
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選手情報 | ||||||||||||
ラテン文字 | Taketsugu Saruwatari | |||||||||||
国籍 | ![]() |
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競技 | 陸上競技 | |||||||||||
種目 | 中距離走 | |||||||||||
大学 | 中央大学 | |||||||||||
生年月日 | 1942年12月23日 | |||||||||||
出身地 | ![]() |
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没年月日 | 1982年7月21日(39歳没) | |||||||||||
身長 | 171.3cm[1] | |||||||||||
体重 | 60kg | |||||||||||
成績 | ||||||||||||
オリンピック | 3000mSC:予選敗退(1964年) 3000mSC:予選敗退(1968年) |
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自己ベスト | ||||||||||||
3000mSC | 8分35秒8(1969年) | |||||||||||
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猿渡 武嗣(さるわたり たけつぐ、1942年12月23日 - 1982年7月21日 )は、日本の陸上競技(中距離走)選手。アジア競技大会優勝2回[2]、オリンピック代表2回(1964年東京、1968年メキシコシティー)[3]、日本陸上競技選手権大会男子3000m障害5連覇。
経歴
福岡県生まれ[2]。福岡県立三池工業高等学校、中央大学出身[4]。
大学在学中に1964年東京オリンピックに出場。1965年に八幡製鐵に入社[2]。1968年メキシコシティーオリンピックに出場した。
1970年に八幡製鐵は富士製鐵と合併して新日本製鐵(新日鉄)となり、新日鉄八幡所属となる[2]。
1975年に現役選手を引退、東京本社厚生課に配属され、社員の文化・スポーツ活動推進に従事した[5]。1980年に室蘭製鐵所厚生課長として赴任[5]。ルポライターの岡邦行によれば、新日鉄八幡は陸上・水泳の実業団チームを擁しオリンピック選手も在籍する環境であったのに対し、新日鉄室蘭(旧富士製鐵系)はそうした環境になく、元オリンピック選手に対する冷ややかな目に抗するために、猿渡は激務に身を投じたという[5][2]。
1982年7月21日、出張のため滞在していた東京のホテルで睡眠中、心不全のため急死。39歳没[5][2]。
脚注
- ^ “1963年度陸上競技体力測定結果報告”. JSPO 日本スポーツ協会. 2025年8月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g 岡邦行 (2020年7月10日). “東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン “オリンピックのサル”なる汚名が猿渡武嗣さんの死期早めた”. 日刊ゲンダイ. 2021年5月4日閲覧。
- ^ “猿渡武嗣”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月18日閲覧。
- ^ 中澤 2010, 44頁.
- ^ a b c d e 岡邦行 (2020年7月9日). “東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン 猿渡武嗣さんは妻に笑われた占いの「39歳で死ぬ」が現実に”. 日刊ゲンダイ. 2021年5月4日閲覧。
関連項目
参考文献
- 中澤篤史「オリンピック日本代表選手団における学生選手に関する資料検討」『一橋スポーツ研究』第29巻、2010年、37-48頁。
- 猿渡武嗣のページへのリンク