修善寺の大患とは? わかりやすく解説

修善寺の大患

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:44 UTC 版)

夏目漱石」の記事における「修善寺の大患」の解説

1910年明治43年6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中胃潰瘍長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院同年8月療養のため門下松根東洋城勧め伊豆修善寺に出かけ、菊屋旅館転地療養する。しかしそこで胃疾患になり、800gにも及ぶ大吐血起こし生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品影響与えることとなった漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情吐露見られる同年10月容態落ち着き長与病院戻り入院その後胃潰瘍などの病気何度も苦しめられる1911年明治44年8月関西での講演直後胃潰瘍再発し大阪大阪胃腸病院に入院東京戻った後は、痔にかかり通院1912年大正元年9月、痔の再手術同年12月には、『行人』も病気のため初め執筆中絶する1913年大正2年)は、神経衰弱胃潰瘍6月頃まで悩まされる1914年大正3年9月4度目胃潰瘍病臥作品人間エゴイズム追い求めていき、後期三部作呼ばれる彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。 1915年大正4年3月京都旅行し、そこで5度目胃潰瘍倒れる。6月より『吾輩は猫である執筆当時の環境回顧し、『道草』の連載を開始1916年大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆結婚式出席して後の12月9日体内出血起こし明暗執筆途中自宅死去49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここにをかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女愛子泣き出してそれを妻である鏡子注意したときに漱石なだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよと言ったことが、最期の言葉ともされる。 死の翌日遺体東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖されるその際摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノール漬けられた状態で東京大学医学部保管されている。重さは1,425グラムであった戒名文献古道漱石居士墓所東京都豊島区南池袋雑司ヶ谷霊園1種14号1側3番)。 1984年昭和59年)から2004年平成16年)まで発行され日本銀行券D千円券肖像採用された。

※この「修善寺の大患」の解説は、「夏目漱石」の解説の一部です。
「修善寺の大患」を含む「夏目漱石」の記事については、「夏目漱石」の概要を参照ください。

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