判事 松本暢として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:45 UTC 版)
明治維新の際に尾張藩を通して新政府の刑部省判事(のちの司法省、現在の法務省)になり、のち権大判事まで進んだ。改革派のリーダーとして藩政の立て直しに奔走し、鳥居忠文(第8代壬生藩主)や壬生藩士が新政府に出仕するにあたって尽力した。明治時代史大辞典第1巻の記載によると刑部卿の正親町三条実愛のもと、刑部大輔(刑部省の事務方の長)を務めている。 日光県、栃木県に出仕した後、日光二荒山神社宮司(1893年から1896年まで)や三嶋大社宮司を務めた。その後は早稲田大学教授として大学教育にも携わった。「東野書狂士」を自称した蔵書家として知られ、旧蔵書の多くは、没後に二男の渡部信(帝室博物館総長等、1884年~1973年)により東京大学に寄贈された。生前の1911年(明治42年)に渡部文庫の売出しがあった際、狩野亨吉(哲学者)により悉く購入され、それらは東北大学狩野文庫や九州大学に多数所蔵されている。「栃木県教育史」には壬生藩との軋轢や脱藩後の京都における長州藩の木戸孝允、土佐藩の後藤象ニ郎、佐賀の江藤新平らと交流があったことなどが記されている。
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