判事の職と戦後の活動
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「ジェイムズ・サリバン (州知事)」の記事における「判事の職と戦後の活動」の解説
サリバンがマサチューセッツ邦最高司法裁判所判事に指名されたとき、その地位はイギリス当局にはっきりと対抗するものであるために、特に危険なものとみられた。イギリスが反乱を鎮めることに成功した場合、その地位にある者は命を危険に曝すものと考えられた。サリバンが審問した注目すべき事件は「マサチューセッツ植民地対ナサニエル・ジェニソン事件」の予備審問であり、1783年の裁判所が奴隷制度は州憲法と相容れないと裁定したいわゆるクオク・ウォーカー事件の1つだった。サリバンは公然と奴隷制度に対する反対を表明し、その著作の中でこの問題は将来論議を呼ぶものになると予言していた。 サリバンはマサチューセッツ憲法を起草した1779年の会議に参加した。1780年から1782年、サリバンと裁判所の他の判事は州法と憲法を調和させるために活動し、旧法を改定したり撤廃したりして、新しい方の起草を助けた。 1779年、サリバンはハーバード大学から名誉博士号を贈られた。判事は1782年まで務め、その給与が支出を支えられなかったために、その違いを埋められなかったので、辞任した。ボストンで法律事務所を開き、メノトミー(現在はアーリントン、当時はケンブリッジの一部)にあった家屋に移転した。1782年から1783年までは連合会議のマサチューセッツ代表に選ばれたが、この時も財政的な理由で出席しなかった。しかし、邦の政治では活動的であり知事のジョン・ハンコック、続いてサミュエル・アダムズを支えた。著作の方でも多作であり、様々な仮名でマサチューセッツの多くの新聞で起こっていた政治的議論に投稿することが多かった。 1787年、サリバンはシェイズの反乱に参加したことで告発された個人の弁護に参加した。この反乱はその前年に州内の田園部で始まっていた。この行動でマサチューセッツ法曹界の忠誠心ある政府寄りメンバーから批判されることになった。 1788年、マサチューセッツ邦がアメリカ合衆国憲法の批准について議論したとき、サリバンはその憲法に対する保留を表明した政治家の一人だったが、総体的には批准を支持した。その議論の中で会議は条件付きで憲法を採択し、連合議会がその一連の修正のための検討を行い行動することに委ねるという提案を行った。サリバンが提案した7項目の修正は、主に連合議会と裁判所の譲歩で州の権限を増すように考えられていた。例えば、連邦の犯罪で告発された個人に、州の最高裁判所が「人身保護」令状を発行できるようにすることだった。
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