判事時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 21:24 UTC 版)
1881年(明治14年)2月帰国し、6月司法省民事局雇となり、麹町区上六番町42番地の父の仮宅隣の茶畑畔に住んだ。10月東京控訴院判事に就任した。 1883年(明治16年)1月大審院に入り、3月刑事局に配属された。大審院では長野県上高井郡奥山田村、中山村、牧村の間で争われた日影山境界争論一件に関わり、中村元嘉と現地の山奥に入り、村民の懐柔工作に耐えながら実検を行った。 1885年(明治18年)7月英吉利法律学校設立者に名を連ね、証拠法を教えた。8月横浜始審裁判所長に就任し、イギリスに倣い代言人の地位向上に努めた。当初官舎に入ったが、後に神奈川台町に移り、余暇には上京して高等文官試験委員、東京法学院・明治法律学校講師を務めた。
※この「判事時代」の解説は、「岡村輝彦」の解説の一部です。
「判事時代」を含む「岡村輝彦」の記事については、「岡村輝彦」の概要を参照ください。
- 判事時代のページへのリンク