最高裁判事時代
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「ウィリアム・レンキスト」の記事における「最高裁判事時代」の解説
レンキストは最高裁判事ジョン・マーシャル・ハーランの後任としてニクソン大統領の指名を受け、1972年1月7日に最高裁判事に就任した。レンキストはプライバシー権の拡大に反対し、連邦政府よりも州の権限を重視するなど、当時の最高裁では最も保守的な判事だった。学校における人種差別廃止への裁判所の関与に反対し、またロー対ウェイド事件においては女性の中絶の権利を否定する反対意見を書き、また学校での礼拝や死刑制度を支持した。当時は単独で反対意見を執筆することが多かったが、以後の判事の交代では共和党の大統領に指名された最高裁判事が多かったため、レンキストの考えは徐々に他の判事にも受け入れられていった。 1986年、最高裁長官のウォレン・バーガーの引退を受けて、ロナルド・レーガン大統領はレンキストをその後任に指名、上院での承認を経て9月26日に長官に就任した。レンキストは憲法上の州の権限拡大を主張し、1995年の合衆国対ロペス事件では、学校の周辺での銃の所持を禁じた連邦法が憲法の定めた連邦議会の権限を越えており違憲とする多数意見を執筆した。またゼルマン対シモンズ-ハリス事件でレンキストは、政教分離を緩やかに解釈し、宗教系の私立学校への公金支出となるスクール・バウチャー制度について合憲判断を下した多数意見を書いた。 レンキストは1999年、ビル・クリントン大統領の弾劾裁判を指揮した。また2000年のブッシュ対ゴア事件では、レンキストはフロリダ州に票の再集計停止を命じジョージ・W・ブッシュの大統領選勝利を決定づけた多数意見に参加、同意意見を述べた。 2004年10月、最高裁はレンキストが甲状腺ガンと診断されたとを発表した。2004年末から2005年3月にかけて口頭弁論を欠席したものの、この間もレンキストは最高裁の審議・判決に関与し続けた。 レンキストは2005年9月3日、バージニア州アーリントンで在職のまま死去した。遺体はアーリントン国立墓地に埋葬されている。 レンキストは1953年にナタリー・ナン・コーネルと結婚しており、二人の間にはジェイムズ、ジャネット、ナンシーの3人の子どもがいる。 公職先代:ジョン・マーシャル・ハーラン アメリカ合衆国最高裁判所陪席裁判官1972年1月7日 - 1986年9月26日 次代:アントニン・スカリア 先代:ウォレン・バーガー アメリカ合衆国最高裁判所首席裁判官1986年9月26日 - 2005年9月3日 次代:ジョン・ロバーツ
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