大統領の弾劾
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「タデウス・スティーブンス」の記事における「大統領の弾劾」の解説
1867年3月4日に招集された連邦議会では、スティーブンスが期待したほどジョンソンへの反対活動が盛り上がらなかった。議会は7月までで休会となったが、司法委員会は大統領を弾劾すべきかを聴聞するために活動が続けられた。スティーブンスは弾劾をしっかりと支持したが、他の議員はオハイオ州選出上院議員のベンジャミン・ウェイドを上院議長代行に選出すると、それほど熱心ではなくなっていた。ウェイドは副大統領が居ない状況で(ジョンソンが大統領に昇格したあとは空席だった)、大統領職を継承する第1順位にあった。ウェイドは富の再配分を支持する急進派であり、カンザス州で行った演説はカール・マルクスに印象を与えており、マルクスは『資本論』ドイツ語版初版でそのことを言及している。女性参政権の支持者でもあったウェイドは疑いを持たれる存在でもあった。ウェイドに大統領職を継承する可能性があることで、ジョンソンを排除しようという推進者も躊躇するところがあった。しかし、スティーブンスは大統領の解任を強く支持し、司法委員会が報告書を出せなかったときには、それが完成するまで議会の会期を続けさせるように努めた。大統領には対決姿勢を示していたが、閣僚とは共通の関心事項について協業した。アラスカ購入についてはその予算を確保し、国務長官のウィリアム・スワードにさらに拡大できる領土を取得するよう勧めた。 ジョンソン内閣の大半はジョンソンを支持したが、陸軍長官のスタントンはそうではなく、陸軍総司令官で南北戦争の英雄であるユリシーズ・グラントと共に、ジョンソンのレコンストラクション政策を弱める方向に動いた。ジョンソンは議会が通した法に従い、その中には拒否権を使ったものを覆されたものもあった。その意図に反する方向で法を解釈することも多かった。1867年8月、スタントンがジョンソンからの辞任要請を拒否すると、役人任期法によって認められているところに従いスタントンを停職させ、暫定陸軍長官にグラントを指名した。共和党はその年の選挙でアフリカ系アメリカ人の選挙権問題を扱ったが、それに反対する民主党への有権者の支持を集める結果になった。連邦議会の議席には直接の影響が無かったが、オハイオ州では黒人参政権に関する住民投票が否決され、オハイオ州議会では民主党が多数党となった。これは1869年にその任期が終了するウェイドが再選されないであろうことを意味していた。 12月に議会が再招集されると、司法委員会では賛成5票、反対4票で弾劾実施を可決したが、下院では否決された。1868年1月13日、上院はスタントンの停職を覆した。グラントは陸軍長官を辞任し、スタントンが復職した。それでも2月21日、ジョンソンはスタントンを解任し、ロレンソ・トーマスを後任に指名した。しかし、スタントンはその事務所に閉じこもった。これらの行動によってワシントンでは大きな騒ぎとなり、下院ではスティーブンスが議場の集団から集団を歩き回り、「だから言っただろう?その控えめな態度で何か良いことがあったかい?獣を殺さなければ、あなたが殺される」と繰り返し語った。スティーブンスは2月24日に新たな弾劾決議の議論を締めくくったが、健康状態が思わしくなく、途中で演説を打ち切り、残りは事務官に代読させた。スティーブンスはジョンソンが政府の他の府の権限を侵害しており、人民の意志を無視していると非難した。弾劾は政治的なことであるのを否定しなかったが、「これはある政党の一時的な勝利であるが、全大陸が自由で制約されない人々で埋め尽くされるか、縮こまり臆病な奴隷の巣になるか、結果を見るまで耐えることである。」と語った。下院は賛成126票、反対47票で大統領の弾劾実施を決めた。 スティーブンスは翌日下院の代表団を率いて、上院に弾劾のことを伝えたが、自身は人に担がれてそのドアのところまで行く必要があった。弾劾条項を起草する委員会にも選ばれていたが、病気のためにあまり関われなかった。それでも委員会が作成した原稿には不満だったので、代案を用意し、それが第11条になった。これはジョンソンの発言の中で、南部州が入っていないために議会の正当性を否定したことを告発し、ジョンソンがレコンストラクション法に従おうとしなかったことなどが述べられていた。スティーブンスは下院から弾劾裁判に出席するマネジャーすなわち検事役の一人に選ばれた。スティーブンスは病気が重くて、ジョンソンが召喚された(大統領はその補佐官あるいは弁護マネジャーとのみ出席する)3月3日の上院に顔を出せなかったが、召喚が繰り返された10日後には出席した。「ニューヨーク・ヘラルド」紙の記事ではスティーブンスについて、「死人のような顔色であり、唇は引き攣れている...奇妙でこの世のものではないような外貌である...墓から出てきた抗議者...狂信の体現そのものであり、正義あるいは慈悲のかけら一つ無く...その党の宿敵に恨みを晴らす、国の行政者に対する心を決めた執念深い敵」といった言葉が並べられていた。 スティーブンスの病気は徐々に重くなり、弾劾裁判にもほとんど参加できなかった。下院のマネジャーを指導したのはマサチューセッツ州選出下院議員のベンジャミン・フランクリン・バトラーだった。スティーブンスが上院の議場にいるときは、生卵、キスイガメ、ポートワインとブランディで栄養を摂っていた。4月27日下院マネジャーが最終演説を行う前に、2回発言しただけだった。発言をしながら声が弱まり、最後はバトラーに原稿の後半を代読させた。スティーブンスは第11条に焦点を当て、ジョンソンを政治的な犯罪故に解任できるという立場を採った。法に違背する行動を取っている必要は無かった。大統領は法に忠実に執行することを誓っており、上院がスタントンの解任を認めなかった後も役人任期法に意図的に従わなかったことを挙げ、「今この暗殺の子孫が上院に居り、...憲法に沿ったやり方で詰問しているのを無視している。法の報復をどうやって遁れられるであろう?」と発言した。 急進派の大半は、ジョンソンが有罪となり解任されることを確信していた。しかしスティーブンスは、首席判事(元財務長官)のチェイスが被告側の立場にあったのでその結果に確信が持てず、また共和党員が結束を固めているという確証も無かった。5月11日、上院は秘密会合を開き、議員たちがどのように投票する意図であるかを説明した。民主党の全員が反対であったが、予想外に共和党員の多くも、告発事項の幾つかあるいは全てに無罪の判断をしていた。マネジャーが票を数えると、有罪宣告に必要な3分の2を得られるチャンスは、スティーブンスが提案した第11条であり、上院が票決のために招集されたとき、真っ先にそれについて問うことにされた。これは懐疑的な者の票を容れれば、大統領はその条項で有罪とはならないことを意味していた。票決は賛成35票、反対19票で否決された。共和党員は時間を稼げば違った結果になることを期待し、上院を10日間休会にした。スティーブンスは椅子に座ったまま上院から担ぎ出された。ある目撃者は「怒りと失望で黒くなっていた」と表現していた。議場の外にいた者達がその結果に怒号を浴びせたとき、スティーブンスは「この国は悪魔の所に行こうとしている」と叫んだ。
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