ジョンソン大統領の弾劾
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「ベンジャミン・ウェイド」の記事における「ジョンソン大統領の弾劾」の解説
1865年5月にエイブラハム・リンカーン大統領が暗殺された後、副大統領のアンドリュー・ジョンソンが大統領に就任した。ウェイドは他の急進派共和党員と共にジョンソンを厳しく批判した。解放奴隷局や公民権法案を支持し、公民権はコロンビア特別区に拡大することに成功した。アメリカ合衆国憲法修正第14条(公民権の保証)成立を強く推進した。ネブラスカ州とカンザス州の連邦加盟を強く推進することで議会における共和党の力を高めた。こうした行動で第40期(1867年)アメリカ合衆国議会の初めには著名な人物となっており、上院議長代行に就任した。この地位にあることは、大統領不在の場合に当時の法で承継順位の第1位にあることを意味していた。副大統領から昇格したジョンソンは承継順位第1位となる副大統領がいなかった。 共和党が支配していた議会で、多くの脱落者が出たものの、司法委員会でジョンソン大統領の弾劾実施を票決した。ジョンソンは民主党員だった。ジョンソン大統領が弾劾裁判に掛けられると、ウェイドは判事に就任する上院議員の一人となったが、裁判の結果について不適切な興味を抱いていたので、強く批判された。上院議員の大半はジョンソンが告発状に対して有罪と考えていたが、過激派のウェイドが大統領代行になることを望んでいなかった。ある新聞は「ベン・ウェイドがジョンソンの後継者であることで有罪なので、アンドリュー・ジョンソンは無罪である」と記していた。 レコンストラクション時代に南部からアメリカ合衆国議会議員に選出された22人のアフリカ系アメリカ人の1人、ジョン・ロイ・リンチ(ミシシッピ州、共和党、在任1783年-1877年、1882年-1883年)は、その著作『レコンストラクションに関する事実』の中で次のように記していた。 当時多くの者が信じていたことは、現職大統領が有罪となったときに、その大統領職を引き継ぐ者に対して中道派共和党員の何人かが反感を持っていたので、ジョンソンの無罪に投票したということである。その男とはオハイオ州出身のベンジャミン・ウェイド上院議員であり、当時の法では、如何なる理由にしろ大統領職が空席となった場合に、その職を引き継ぐことになる上院議長代行の職にあった。ウェイド上院議員は有能な男であり、強力な党の一員だった。急進派共和党員と主張する者達にも我慢がならず、党組織の多数(グリムズ、ジョンソン、リンカーン、プラット、トランブルなど)によって決まったことを甘受せず、党組織の中でその強大な権力と影響力、彼に対する嫉妬を政界におけるライバルとして怖れた者達を敵にする可能性が強い、積極的で攻撃的な人物だった。共和党上院議員の仲間の中には、この国のためにその権限でできる最善のことが、このような男が大統領に昇格することを妨げることだと考えた者がいた。彼等はウェイドが有能な男であることを知っていたが、ウェイドが党の任務や義務について確信しているところに従えば、党に最善を尽くす者が国にも最善を尽くす者だという確信であり、彼が有能な政権をこの国に作るであろうことは、彼を最も良く知っている者達に共通の意見であることも知っていた。 1868年、当時大統領候補だったユリシーズ・グラントは仲間の共和党員からウェイドを副大統領候補に選ぶよう推薦された。しかしグラントはこれを拒み、その代わりに別の急進派であるスカイラー・コルファクスを選んだ。コルファクスは当時ウェイドの姪であるエレン・マリア・ウェイドと選挙直後に結婚することになっていた。ウェイドは1868年の候補者選びに敗れた後、オハイオ州に戻って法律実務を再開した。政界に戻ることは無かったが、法律と政治の世界に対する貢献を続けた。ノーザン・パシフィック鉄道の代理人となり、党での活動を継続し、1871年にはドミニカ共和国を買収する可能性を調査する委員会委員になり、1876年にはラザフォード・ヘイズを選んだ大統領選挙人になった。ウェイドは1878年3月2日、オハイオ州ジェファーソンで死去した。
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