1708年から1710年までの野党期
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「サイモン・ハーコート (初代ハーコート子爵)」の記事における「1708年から1710年までの野党期」の解説
1708年に内閣が分裂し、ゴドルフィンとハーレーが決裂すると、ハーレーの罷免とともにハーコートも2月12日に辞任した。この時期の議会では1707年のアルマンサの戦いの時点でスペインに駐留しているイギリス軍の人数が注目されており、ハーコートはそれまで内閣へのダメージを減らそうと努力したが、調査の結果が出た2月24日にはハーコートがすでに辞任しており、内閣を支持する義務がなくなったため、トーリー党員からの政府を攻撃する動議に(ハーレーとともに)賛成した。同年の総選挙では野党に転じたためボッシニー選挙区での政府からの支持を期待できず、アビンドン選挙区で立候補して辛勝した。しかし、対立候補が選挙申し立てをするのは確実であり、選挙申し立ての結果ハーコートは1709年1月20日に逆転落選した。選挙情勢ではホイッグ党有利なのは確実だったため、ハーコートは演説によるプロパガンダ戦に転じ、世論の支持を勝ち得た。とあるスコットランド人トーリー党員が「誰が正当なのはわからないが、党が勝ってくるのでそれを知ってもあまり役に立たない。サー・サイモン・ハーコートの件については、彼が多数(の票を得たのは)確実だったが、トーリー党員であるがために助からなかったのだ」とコメントしたように、ハーコートのプロパガンダ戦は選挙申し立てでは役に立たなかったが、1710年から1711年にかけてジョナサン・スウィフトなどの論客がホイッグ党を攻撃したときは大いに役に立ったという。また、ハーコートが庶民院議員ではなくなったことで、ヘンリー・サシェヴェレル(英語版)の弾劾裁判でサシェヴェレルの首席弁護士を務められるという意味でも、ハーコートへの攻撃は結果的にホイッグ党のミスになった。 1710年2月、ハーコートはカーディガン選挙区(英語版)の補欠選挙に出馬して当選したが、当選が宣告されるとサシェヴェレルの弁護士を務められなくなるため、2月22日に当選したにもかかわらず正式な当選宣告は3月3日の答弁演説の後まで延期された。サシェヴェレル裁判におけるハーコートの演説は大いに期待されており、裁判の初日にハーコートが演説したとき、演説の内容がサシェヴェレルの準備したものであるとわかると、出席した貴族は落胆したという。演説はトーリー党員が「古代ギリシアやローマの雄弁と少なくとも同等である」と称賛し、ジャコバイトのジョージ・ロックハート(英語版)すらハーコートが「なすべき最善の弁護をした」と称えた。そして、3月3日の演説の後、カーディガン選挙区での当選が宣告され、ハーコートはサシェヴェレルの弁護から手を引いた。サシェヴェレルは謝礼としてハーコートに金メッキの水盤を贈り、以降ハーコートはサシェヴェレルのパトロンになった。 また、1710年にニューナム・コートネイ(英語版)の地所を購入したが、ハーコートはそれまでの邸宅があるスタントン・ハーコート(英語版)近くのコークソープ(Cokethorpe)から移住しなかった。アン女王はコークソープでハーコートを訪れたことがあったという。
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