1707年の戦況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/17 06:26 UTC 版)
「アウデナールデの戦い」の記事における「1707年の戦況」の解説
1706年のラミイの戦いでイギリス軍の司令官マールバラ公ジョン・チャーチルはフランス軍に大勝、余勢を駆って南ネーデルラント(ベルギー)を平定した。オーストリア軍の将軍プリンツ・オイゲンもトリノの戦いで北イタリアを解放、翌1707年にオーストリア軍がナポリも手に入れ同盟側が有利になった。 しかし、スペインでは4月25日にフランス側のベリック公がアルマンサの戦いで同盟軍を破ってスペインの同盟軍は掃討され、ドイツではライン川に勢力を張っていたヴィラール公がバイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストが守っていたシュトルホーフェンを落とし、そのまま東に進軍してヴュルテンベルクも制圧、クリスティアン・エルンストに代わってハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のグレートブリテン王ジョージ1世)が進軍すると退去したが、ライン川のフランス軍は同盟軍の脅威であった。 6月下旬から始まったオーストリア軍によるフランス南部の都市トゥーロン包囲戦は失敗、8月下旬に撤退した(トゥーロン包囲戦)。ネーデルラントはマールバラ公とフランスの将軍ヴァンドーム公が対峙、互いに決戦を回避したため進展は無かった。同盟軍はスペイン、ドイツで危機を迎えたが、イタリアを奪取したことで軍をライン川、ネーデルラントへ振り分けることが可能になった。
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