再度の野党期(1761-1766)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 04:40 UTC 版)
「ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)」の記事における「再度の野党期(1761-1766)」の解説
下野後、組閣の大命を受ける1766年7月まで再び野党の立場となったが、1762年から1764年にかけてピットは痛風が悪化して議会に出席することが少なくなった。そのため野党は強力な指導者を欠く状態となり、分裂状態に陥っていた。 1762年5月に首相ニューカッスル公爵は辞職し、ビュート伯爵が代わって首相に就任したが、議会政治を危機に陥れて成立したこの内閣は当初より不人気であり、逆にピットはビュート伯爵と対比される形で人気を上昇させた。結局1763年4月にビュート伯爵は辞任し、代わってジョージ・グレンヴィルが首相に就任した。グレンヴィルは庶民院議員であったものの、ビュート伯爵の影響力が強かったのでやはり批判が多い政権となった。ピットに近いジョン・ウィルクスが1763年4月に国王勅語を批判し、それに対してグレンヴィル政権が「一般逮捕状」でウィルクスを逮捕したことにはじまるウィルクス事件もこの時期に発生している。 グレンヴィル政権は1765年3月に植民地での歳入増加を目指して印紙法を可決させたが、これはアメリカ植民地人から強い反発を招いた。「本国には植民地に課税する権利がある」というのは当時のイギリス政治家の主流意見であったが、その中にあってピットは当初より植民地への課税に反対だった(結局この印紙税はアメリカ植民地人のイギリス製品ボイコット運動を招いたため、政権交代後に廃止されることになる)。 1765年7月にはグレンヴィル内閣が倒れ、ピットと同じくグレンヴィル政権を批判してきた第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワース(ニューカッスル公の派閥の継承者)が組閣したが、ピットは同内閣への入閣を拒否した。まもなく政権運営に行き詰ったロッキンガム侯は、1766年1月に再度ピットに協力を要請したが、ピットはこの時も拒否した。
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