ウィルクス事件
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「ジョージ・グレンヴィル」の記事における「ウィルクス事件」の解説
ビュート伯を批判し続けていた急進派の庶民院議員ジョン・ウィルクスは、1763年4月23日発行のパンフレット『ノース・ブリトン』45号でジョージ3世の議会停会の際の勅語(七年戦争の講和条約を称賛する内容)を批判した。その記事の中でウィルクスは「勅語はこれまで議会において、また一般国民からも大臣の演説と考えられてきた」として勅語批判は違法ではないとの見解を示した。そして国王を称賛しつつ、グレンヴィル首相のことは「ビュートの権力の薄汚い残りかす」「腐敗や専制の道具」と批判し、「自由はイギリス臣民の大権」「抑圧されるならば、あらゆる合法的な企図によって正当な抵抗を試みるであろう」と論じた。 「合法的な企図」と断っており、特に問題視すべき内容でもなかったが、野党の攻勢に苦しめられていた国王とグレンヴィルはこれを「扇動目的を持った誹謗文書」と過度に問題視し、ウィルクスを扇動誹謗罪で処罰することとした。しかもその処罰の仕方は、逮捕者を特定しない「一般逮捕状」でもって『ノース・ブリトン』45号の執筆・印刷・出版に関わった全員を逮捕するという強硬なやり口だった。この件は議会内外に「ノース・ブリトン45号は扇動目的の誹謗文書か」「一般逮捕状は合法的か」「ウィルクス逮捕は議員特権の侵害ではないか」という法律問題を巻き起こした。 間もなくウィルクスは人身保護令状の執行でロンドン塔から釈放され、また議員特権を持つ者を逮捕・監禁するのは違法行為である旨の判決を得た。自由の身となったウィルクスはさっそく政府への挑戦を再開し、ノース・ブリトン合冊本の出版を目指したが、その前に『女性論(An Essay Woman)』という本を出版した。これは猥褻で神を冒涜する内容であり、ウィルクスに対する議会の反感を高めた。11月には貴族院で『女性論』が取り上げられ、満場一致で神への冒涜を批判する決議が出された。ウィルクス釈放を支援していた者たちもこの件ではほとんどウィルクスを擁護しなかった。また庶民院も『ノース・ブリテン』45号を「不穏文書」と認定し、ウィルクスに対してとった政府の処置を包括的に容認する決議を行った。このウィルクスへの反感を利用してグレンヴィルは、1763年11月にウィルクスに特権は及ばないことの確認の動議、ついで1764年1月にはウィルクスを庶民院から除名する旨の動議を可決させた。 身の危険を感じたウィルクスは1763年12月にもフランスへ亡命したので、ウィルクスをめぐる問題は一段落した形となった。しかしこの時のグレンヴィル内閣のウィルクスに対する過酷な処置は、議会内外にイギリス臣民の自由が危機に晒されているという不安を高めることになり、後々まで引きずることになる。政府の安定という観点からいえば、かえって悪影響をもたらしたといえる。
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