第2次マクドナルド内閣に対する野党期(1929年-1931年)
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「スタンリー・ボールドウィン」の記事における「第2次マクドナルド内閣に対する野党期(1929年-1931年)」の解説
1929年6月4日に労働党政権の第2次マクドナルド内閣が発足したが、同年10月末にはアメリカ・ウォール街の株式暴落に端を発する世界恐慌が発生。イギリスでも大量の失業者が発生した。マクドナルド内閣は失業者救済のために公共事業拡大策を打ち出したが、野党党首ボールドウィンはそれに反対し、失業対策は保護貿易しかないと主張。この主張はやがて自由党内の保護貿易支持派(特にジョン・サイモン)にも支持を広げていった。 労働党政府が恐慌に有効な手を打ち出せない中、1931年5月にはオーストリアのクレディト・アンシュタルト(英語版)が破産。これをきっかけに金融恐慌がイギリスを襲い、1931年半ばから金と外国為替の外国への急激な引き揚げが発生した。アメリカやフランスからの金融的援助は、緊縮の実施を条件とされたため、マクドナルド政府は緊縮政策に傾いていかざるを得なくなり、失業手当のカットが行われた。しかし失業が深刻化する中での失業手当カットは労働党を支える労働組合からの激しい反発を招き、労働党内は緊縮派のマクドナルド派と反緊縮派のアーサー・ヘンダーソン派に分裂した。 さらに1930年末から1931年にかけて補欠選挙が相次いだが、いずれの選挙でも保守党が票を急増させていた。そのためマクドナルド首相は労働党単独政権を続ける自信をすっかり喪失しており、ヘンダーソンら労働党主流派は切り捨てて保守党と連携する必要があるとの思いを強めた。 下野以来ボールドウィンが目指していたのは大連立ではなく、保守党による政権だった。彼にはかつてロイド・ジョージ挙国一致内閣を潰した経緯もあったので再度の挙国一致内閣は避けたいという思いも強かった。しかし挙国一致内閣に前向きなネヴィル・チェンバレンに説得され翻意した。8月23日に国王ジョージ5世に引見され「マクドナルドの下での挙国一致内閣に参加し、国に仕える覚悟はあるか」との下問を受けたたボールドウィンは「現在の危機にあたって国に奉仕するためにどのようなことでも行う用意があります」と奉答している。 8月22日と23日の閣議は完全に分裂し、マクドナルドは内閣の統一が保持できないとして8月24日に総辞職。同日、宮廷でボールドウィンとマクドナルドとサミュエル(自由党党首)による三党会談がもたれた。国王の仲介によりボールドウィンとサミュエルはマクドナルドが組織する挙国一致内閣に参加することを了承した。この際にボールドウィンは首相の地位を要求せず、閣僚についても10人中4人を保守党とするだけで了解した。 労働党内ではマクドナルドら挙国派がヘンダーソンらと袂を分かって挙国一致内閣を組織し(労働党は大連立反対派が主流であり、マクドナルドらは事実上除名された形であった)、挙国派労働党(英語版)と保守党と自由党による大連立政権が誕生することになった。
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