第2次マラータ戦争とは? わかりやすく解説

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第2次マラータ戦争 (1803年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:09 UTC 版)

アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「第2次マラータ戦争 (1803年)」の解説

1799年ブリュメール18日のクーデターフランス第一統領の座についたナポレオン・ボナパルトは、1802年3月イギリスアミアンの和約締結したが、この休戦中もナポレオンインドにおけるイギリス覇権を覆そうとマラータ同盟支援行った。 これに対抗してインド総督である兄ウェルズリー侯爵リチャード次なる侵攻対象マラータ同盟定めた。再びアーサーその実役となった。1803年2月セリンガパタムを立ち、プネーまでの1000キロを2カ月行軍したマラータ族補給線断ち切られることを警戒して牛を引き連れていったことが迅速な行軍を可能とした。 8月には同盟国ニザーム王国脅かしていたマラータ族アフマドナガル城攻略した。 さらに9月にはマラータ族中でも強力な諸侯であるボーンスレー家(ラグージー・ボーンスレー2世)とシンディア家ダウラト・ラーオ・シンディア)とアサエ英語版)で対峙した。マラータ側は5万人の兵と100基の大砲持っており、対すイギリス軍は2歩兵連隊と1騎兵連隊の計7000人、大砲20基しかなく圧倒的に不利な情勢であったアーサーこれだけ兵力差がある大軍相手にするには側面をつくしかない考えてカイトナ川渡河を敢行し、アサエの戦いにおいてボーンスレー軍、シンディア軍ともに撃破することに成功した11月にもアルガーオン(英語版)でボーンスレー軍、シンディア軍と再び対峙し、マラータ軍の砲撃セポイ散り散りにされたが、アーサー的確な指示で彼らを再招集し、また迂回させることで予定位置集結させ、勝利することができた(アルガーオンの戦い)。 この一連の第二次マラータ戦争勝利鮮やかだったため、アーサー一躍有名人となった1804年9月にはバス勲章授与され、「サー・アーサー・ウェルズリー」となった。 しかし1804年中のウィリアム・モンソンのコーターでの敗戦ムクンドワラ峠の戦い)、ジェラルド・レイク(英語版)のバラトプル攻略失敗バラトプル包囲戦)で兄ウェルズリー侯爵立場なくなり1805年本国召還された。弟であるサー・アーサーもこれを機にインドでの職を退くことにした。

※この「第2次マラータ戦争 (1803年)」の解説は、「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の解説の一部です。
「第2次マラータ戦争 (1803年)」を含む「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事については、「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の概要を参照ください。

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