第2次マラータ戦争 (1803年)
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「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「第2次マラータ戦争 (1803年)」の解説
1799年のブリュメール18日のクーデターでフランス第一統領の座についたナポレオン・ボナパルトは、1802年3月にイギリスとアミアンの和約を締結したが、この休戦中もナポレオンはインドにおけるイギリスの覇権を覆そうとマラータ同盟の支援を行った。 これに対抗してインド総督である兄ウェルズリー侯爵リチャードは次なる侵攻対象をマラータ同盟に定めた。再びアーサーがその実行役となった。1803年2月にセリンガパタムを立ち、プネーまでの1000キロを2カ月で行軍した。マラータ族に補給線を断ち切られることを警戒して牛を引き連れていったことが迅速な行軍を可能とした。 8月には同盟国ニザーム王国を脅かしていたマラータ族のアフマドナガル城を攻略した。 さらに9月にはマラータ族の中でも強力な諸侯であるボーンスレー家(ラグージー・ボーンスレー2世)とシンディア家(ダウラト・ラーオ・シンディア)とアサエ(英語版)で対峙した。マラータ側は5万人の兵と100基の大砲を持っており、対するイギリス軍は2歩兵連隊と1騎兵連隊の計7000人、大砲は20基しかなく圧倒的に不利な情勢であった。アーサーはこれだけ兵力差がある大軍を相手にするには側面をつくしかないと考えてカイトナ川渡河を敢行し、アサエの戦いにおいてボーンスレー軍、シンディア軍ともに撃破することに成功した。 11月にもアルガーオン(英語版)でボーンスレー軍、シンディア軍と再び対峙し、マラータ軍の砲撃でセポイが散り散りにされたが、アーサーは的確な指示で彼らを再招集し、また迂回させることで予定位置に集結させ、勝利することができた(アルガーオンの戦い)。 この一連の第二次マラータ戦争の勝利が鮮やかだったため、アーサーは一躍有名人となった。1804年9月にはバス勲章を授与され、「サー・アーサー・ウェルズリー」となった。 しかし1804年中のウィリアム・モンソンのコーターでの敗戦(ムクンドワラ峠の戦い)、ジェラルド・レイク(英語版)のバラトプル攻略失敗(バラトプル包囲戦)で兄ウェルズリー侯爵の立場はなくなり、1805年に本国に召還された。弟であるサー・アーサーもこれを機にインドでの職を退くことにした。
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