第2次ボールドウィン内閣大蔵大臣とは? わかりやすく解説

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第2次ボールドウィン内閣大蔵大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)

ウィンストン・チャーチル」の記事における「第2次ボールドウィン内閣大蔵大臣」の解説

1924年11月4日ボールドウィン大命があり、第2次ボールドウィン内閣発足したボールドウィンチャーチルロイド・ジョージ組んで保守党自由党中道派による「中央党」を結成する事態かねてから恐れていた。そのためチャーチル閣内取り込んでおこうと考え大蔵大臣という重要閣僚職彼に提示したチャーチルそれほど高い地位閣僚職任命されるとは思っていなかったから、ボールドウィンから「チャンセラーChancellor)にならないか?」と聞かれた時、はじめランカスター公領担当大臣Chancellor of the Duchy of Lancaster)のことかと思ったという。そのため、チャーチルは「ランカスターですか?」と聞き返しと言う。だが大蔵大臣Chancellor of the Exchequer)のことだと聞かされた時、感動のあまり、チャーチルの目から涙が溢れたという。この閣僚職は父ランドルフ卿が務めていた地位であり、次期首相最有力候補閣僚職であった金本位制復帰 大蔵大臣チャーチル事績として最も知られているのが第一次世界大戦の勃発中断されていた金本位制への復帰である。大戦後イギリス輸出産業新興国アメリカ日本押され弱体化続けていた。またイギリス海外投資多く戦争手放すこととなり、イギリス国際収支支えてきた貿易収入大きく減少していた。当時イギリス海外投資多くアメリカによって買い取られており、世界金融中心イギリスのシティからアメリカウォール街移ろうとしていた。ドルポンド先んじて大戦終結直後金本位制復帰し世界通貨地位確立していった。国際的地位低下焦っていたシティ金融業界イギリス国際投資国際貿易再興狙って戦前レート(1ポンド=4.86ドル)での金本位制復帰主張するようになった1918年膨大な政府支出のために戦後直後イギリスインフレ的な国内信用拡大起こっていた。しかし1920年以降デフレになり、需要低下し物価は下がり、失業率高まったポンド高進み1922年末には1ポンド=4.63ドル1924年総選挙後には1ポンド=4.79ドルとなった戦前レートでの金本位制復活行って大きな混乱なく実施できそうな相場であり、いい機会見えたチャーチル国際投資より国内信用拡大志向してインフレ政策希望していたが、大蔵官僚イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマン (初代ノーマン男爵)の説得受けて戦前輝かし地位イギリス戻したいという願望強まり、ほとんど何の準備もなく、1925年4月金本位制復活宣言したゼネスト弾圧 戦前レートでの金本位制復帰ポンド過大評価であったので、イギリス輸出競争力は低下し輸出産業とりわけ石炭産業打撃受けたその結果イギリス炭坑資本家経営合理化を図る必要に迫られ1925年6月30日7月1日坑夫労働組合である坑夫連盟に対して従来最低賃金7時労働制を破棄するとともに13%から48%までの幅のある賃金切り下げを行うことを通告した。これに対抗して坑夫連盟労働組合会議ゼネスト表明した。 このゼネストに対してボールドウィン首相は、王立委員会による調査が終わるまで賃金切り下げ分の補助金政府が出すことを約束して懐柔した。しかし王立委員会1926年3月多少労働環境緩和盛り込みながらも、賃金切り下げ補助金打ち切り求め報告書提出したため、再びゼネスト突入危機高まった労働組合会議幹部の間には交渉求める声が多かったが、政府は『デイリー・メール』紙の植字工が政府ゼネスト批判の文を掲載しなかったことを理由として交渉拒否労働組合会議総評議会1926年5月3日からゼネスト突入した王立委員会設置スト破りなどゼネスト骨抜きにする体制を整えるための政府時間稼ぎで、態勢が整うや政府挑発してゼネストを起こさせたという批判がある。そしてその立場からは挑発を行わせた閣僚チャーチルだという見方多かったが、定かではないボールドウィン首相非常事態法を制定し労働運動弾圧開始した。そしてその弾圧を最も強力に支持したのは労働運動背後に常に共産主義者陰謀見ているチャーチルであったチャーチル政府機関紙『ブリティッシュ・ガゼット』を創刊しゼネスト違法であることを訴えたこうした政府攻撃奏功し、ゼネスト大衆支持を得なかった。 政府資本家による労働運動切り崩し工作成功し労働組合会議若干賃金切り下げ認めるに至り5月11日にはゼネスト中止宣言した鉱山労働組合のみ従おうとせず、単独での労働争議続けたが、彼らも11月までに資本家要求をすべて受け入れ無条件降伏追い込まれスト終結したイギリス半植民地エジプト訪問帰路1927年1月イタリア訪問し1922年以来政権掌握していたファシスト党党首首相ベニート・ムッソリーニ会見したイタリア離れる際、イタリア新聞記者たちに対してチャーチルは、「もし私がイタリア人だったらレーニン主義獣欲狂気対抗する貴方達戦い支持し行動をともにしただろう。だが、イギリスにおいては死闘演じる必要がなく、我々には我々流の物事進め方がある。しかし最終的には我々が共産主義戦い、その息の根を止めることに成功する確信している。」と語った。さらに「ファシズム国際的価値」として「破壊的な勢力対抗して文明社会の名誉と安定守ろうという大衆意思正しく導く方法世界示した」ことを指摘し、「ロシア革命の毒に対する最も有効な解毒剤」であると評価したチャーチル1929年4月予算演説にて政府借入金による公共事業では失業率下げることは出来ない宣言した

※この「第2次ボールドウィン内閣大蔵大臣」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
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