第2次ポートランド公爵内閣
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「ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)」の記事における「第2次ポートランド公爵内閣」の解説
「第2次ポートランド公爵内閣(英語版)」も参照 1806年に退任した時点で70歳近くと老齢で、痛風に苦しんでいたため、平穏な引退生活を望んだ。しかし、挙国人材内閣が相次ぐ失敗で退陣に追い込まれたため、小ピット派が再び政権を握ることになり、ジョージ・カニングやカースルレー子爵ロバート・ステュアートなど気性の強い人物でも納得できる首相としてポートランド公爵の名前が挙げられ、1807年に再度首相となった。すでに老齢だったポートランド公爵は多忙な首相職に適さず、実際には外務大臣のカニングと陸軍・植民地大臣のカースルレーが権力を掌握、第一大蔵卿としての職務も財務大臣のスペンサー・パーシヴァルが担った。 第2次ポートランド公爵内閣期には1807年のコペンハーゲンの海戦(英語版)での勝利、1809年のワルヘレン戦役(英語版)の敗北、半島戦争におけるヴィメイロの戦い(英語版)(1808年8月)、シントラ協定(英語版)(1808年8月)、タラベーラの戦い(英語版)(1809年7月)など、ナポレオン戦争の進展がみられたが、いずれもポートランド公爵が賞賛あるいは責任を負うべき出来事ではなかった。 カニングとカースルレーが犬猿の仲だったため、カニングがカースルレーを罷免しなければ自身が辞任すると述べたとき、ポートランド公爵はカースルレーの罷免を承諾したが、結局それも躊躇して引き延ばしに終始した。最終的にはカニングとの交渉がカースルレーにばれ、カースルレーとカニングが決闘したのち2人とも辞任するという事件がおこった。この結果ポートランド公爵も辞任に追い込まれた。
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