爵位継承以降
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「ジェームズ・グラハム (第3代モントローズ公爵)」の記事における「爵位継承以降」の解説
1790年6月の総選挙でグレート・ベッドウィン選挙区から再選したが、議会が開会する前の同年9月23日に父が死去すると、モントローズ公爵位を継承した。これにより庶民院議員を退任することになった。 以降は廷臣、高位なスコットランド貴族、あまり重要でない役職の閣僚といった地位で活躍した。1790年10月に商務庁副長官を退任した後、12月7日に主馬頭(英語版)に就任し、1791年2月に陸軍支払長官(英語版)を退任した。1791年5月16日から1803年10月22日までインド庁委員(Commissioner of the Board of Control)を務め、1793年6月14日にシッスル勲章を授与され、1795年に主馬頭を退任した。1795年1月14日から1836年に死去するまでスコットランド民事控訴院長官(英語版)を務めた。第2次小ピット内閣では1804年6月7日から1806年2月まで商務庁長官を務め、1804年7月から1806年2月までは郵政長官(英語版)も兼任した。小ピットの死に伴い初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルを首班とする挙国人材内閣(英語版)が発足すると、モントローズ公爵は内閣とそりが合わず閣僚から外れた。以降は宮廷職に近い官職しか務めなくなり、第2次ポートランド公爵内閣では1807年4月4日に主馬頭に任命された。1812年3月26日/31日にガーター勲章を授与され、これに伴いシッスル騎士団から退団した。1821年12月に主馬頭から宮内長官(英語版)に転じ、1827年5月まで務めた。ウェリントン公爵=ピール内閣(英語版)では1828年2月18日から1830年7月15日まで宮内長官を務めた。 1836年12月30日にグローヴナー・スクエア(英語版)の自宅で死去、アバリーヴェン(英語版)のモントローズ伯爵納骨所に埋葬された。長男ウィリアムが夭折したため、次男ジェームズ(英語版)が爵位を継承した。ジェームズは翌1837年には父の後任としてグラスゴー大学総長に就任した。一方、スコットランド民事控訴院長官(英語版)は主席判事が兼任するようになった。
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爵位継承以降
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「ルーシャス・オブライエン (第13代インチクィン男爵)」の記事における「爵位継承以降」の解説
1855年7月3日に遠戚にあたる第3代トモンド侯爵ジェームズ・マクエドワード・オブライエン(英語版)が死去すると、インチクィン男爵位を継承、1862年4月11日に貴族院特権委員会に承認された。同年9月12日に弟や妹たちが男爵の子女としての称号や儀礼席次での順位を与えられた。1863年10月20日にアイルランド貴族代表議員に当選、1872年に死去するまで務めた。 1872年3月22日にドロモランドで死去、長男エドワード・ドノー(英語版)が爵位を継承した。
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