放蕩した生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 16:00 UTC 版)
「トマス・リトルトン (第2代リトルトン男爵)」の記事における「放蕩した生活」の解説
1760年にハッグリー・ホール(英語版)の新築が完成すると、その祝いの一環として舞踏会が催されたが、最も高貴な出席者と踊るはずだったリトルトンはそれを拒否して、その日の朝に隣村から連れてきた女性としか踊りたがらなかった。1763年には父がリトルトンとヒュー・ウォーバートン(英語版)の娘の婚約を交渉していたが、リトルトンが未成年だったため、法律上は婚約が成立できず、父はまずリトルトンをグランドツアーに送りだした。リトルトンは同年から1765年までジョン・ダマー(英語版)とジョージ・ダマー(英語版)とともにフランスとイタリアを旅したが、わずか数か月でギャンブルにより借金が重なり、決闘も2回行った。ローマでは歴史家エドワード・ギボンに会ったが、ギボンはリトルトンを酷評し、イタリアに駐在していた外交官の初代準男爵サー・ホレス・マン(英語版)もリトルトンがイギリス人とイタリア人の双方から避けられていると述べた。結局、グランドツアーでの悪評を受けて婚約の話は破談となった。1765年夏に帰国した直後、父と口論して再び外国に向かい、パリでは売春宿での乱闘により投獄された。 1768年イギリス総選挙でビュードリー選挙区(英語版)から出馬して、24票を得て当選したが、これはリトルトンを支持した執行吏(英語版)が自由市民(freeman)を10人増やしたためだった。それでも対立候補の初代準男爵サー・エドワード・ウィニントン(英語版)とは3票差しかない上、1763年のダラム法(Durham Act 1763)に基づき自由市民が投票権を得るのは市民権を得た1年後でなければならないため、ウィニントンが提出した選挙申し立ては庶民院で受け入れられ、ウィニントンの当選が1769年1月に宣告された。庶民院議員としては1年未満の経歴だったが、2回演説しており、うち1768年5月に「ウィルクスの件よりも重要なことがある。たとえば、最近アメリカにおける暴力が激しさを増したとの報告が届いている」(There are more things of importance to be done than the affairs of Wilkes. Some late accounts have brought us news of redoubled violences from America)と発言し、同年11月にもウィルクスによる請願の審議を行うことに賛成した。 議席を失った後、再び大陸ヨーロッパ(主にネーデルラントとイタリア)を旅し、1771年春に歴史家ジョン・グレイ(John Gray)とともにヴェネツィアからミラノまで旅したが、グレイはリトルトンが「狂った人のように」ギャンブルに興じたと述べた。1772年6月26日、アッフィア・ウィッツ(Apphia Witts、1744年頃 – 1840年4月9日、ブルーム・ウィッツの娘)と結婚したが、リトルトンはすぐに妻を捨て、とある女性バーテンダーを連れてパリに向かった。リトルトンはアッフィアとの間で子供をもうけなかった。1773年8月22日に父が死去すると、リトルトン男爵位を継承した。これに伴いリトルトンは本国に呼び戻された。『英国議会史(英語版)』が評価したところでは、リトルトンは爵位継承以降、より規則正しい生活を過ごすようになった(After succeeding to the peerage he led a more regular life)という。
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