爵位返上と大溝での後半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 18:29 UTC 版)
「分部光謙」の記事における「爵位返上と大溝での後半生」の解説
1902年(明治35年)7月11日、光謙は子爵を返上した。収監も経験しているが、獄中で聖書と内村鑑三の著書に出会って人生観を変えたという。1908年(明治41年)に旧藩地に戻り、後半生は高島で送った。旧領とはいえすでに屋敷もなく、仮住まいであったが、聖書研究の会や、青少年を対象とした英語の塾を開いた。 1909年(明治42年)に自宅ではじめた聖書研究会は間もなく「日本聖公会大溝講義所」に発展し、分部夫妻をはじめ10名ほどが受洗した。しかし1912年(明治45年)には素封家の福井邦蔵(のちに日本基督教団明石教会名誉牧師)が信仰を告白したことが契機となって高島では反キリスト教運動が発生し、盛んであった聖公会の集会はさびれてしまったという。また、聖公会の伝道が障害を受けるとともに、聖公会の形式に飽き足らない思いを抱いた信者の中には聖公会とは別の集会を作る動きもあらわれた。日本基督教団大溝教会は光謙を教会の創立者に位置づけており、教会創立日を1908年(明治41年)8月2日としている。同教会のオルガン(辻ピアノ・オルガン製造所製)は、光謙が帰郷した際に東京から持参したもので、集会の際には夫人が演奏したという。 太平洋戦争も末期にさしかかった1944年(昭和19年)11月29日、83歳で死去した。 滋賀県高島市勝野の円光寺にある分部家歴代の墓所の一角に墓がある。
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