第2次ポーランド侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:07 UTC 版)
「モンゴルのポーランド侵攻」の記事における「第2次ポーランド侵攻」の解説
さらに、最初のポーランド侵攻から18年後の同年、ベルケの統治下にあったジョチ・ウルスの軍隊2万人(2トゥメン)がリトアニアを襲撃後に第2次ポーランド侵攻を開始した。この軍隊の指揮官はノガイとブルンダイ(ロシア語版、英語版)であり、モンゴル軍はハールィチ・ヴォルィーニのレーヴ・ダヌィーロヴィチらを先兵としてルブリン、シェラツ(英語版)、サンドミェシュ(英語版)、ザヴィホスト、クラクフそしてビトムを略奪したが、ベルケにはポーランドを占領したり征服する意図はなかった。教皇アレクサンデル4世は、この襲撃のあとタタールに対する十字軍を組織しようと試みたが、失敗した。1260年 クレッセンブルンの戦いでハンガリー王国のベーラ4世がオタカル2世に敗れる。 1265年2月には、東ローマ帝国のミカエル8世パレオロゴスは、マムルーク朝エジプトに対抗するべく、娘のデスピナをイルハン朝に嫁がせようとしていたが、フレグが急死したため、息子のアバカに嫁ぎ、同盟関係になった。1262年のベルケ・フレグ戦争(英語版)以来、イルハン朝とジョチ・ウルスは対立関係にあったため、1265年7月にノガイ率いるジョチ・ウルス軍は、ミカエル8世パレオロゴスの東ローマ帝国に侵攻し、撃破した。ミカエル8世は、娘エウフロシュネー(Euphrosyne Palaeologina)をノガイに嫁がせ、東ローマ帝国はジョチ・ウルスとも同盟した。 1278年 マルヒフェルトの戦いで、ボヘミアのオタカル2世は、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世とラースロー4世の連合軍に破れ、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝が欧州の有力な勢力となる。
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