イギリス政界にて
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「ロバート・ホバート (第4代バッキンガムシャー伯爵)」の記事における「イギリス政界にて」の解説
アイルランド政界入りの傍ら、イギリスでは1788年12月にブランバー選挙区(英語版)でラトランド公爵家の支持を受けて補欠選挙で当選、グレートブリテン庶民院議員に就任した。その直後に摂政法案をめぐる採決で政府を支持した。アイルランド担当大臣への就任により一時期アイルランド議会への対応に追われたが、1790年イギリス総選挙ではアイルランドからイングランドに帰ってリンカーン選挙区(英語版)の議席を確保した。カトリック解放には反対したものの、1792年4月には議会で演説して奴隷貿易廃止を支持した。 1793年5月1日にグレートブリテン枢密院の枢密顧問官に任命され、1793年10月にはベンガル総督サー・ジョン・ショア(英語版)の後任への内定を取り付けた上でマドラス総督(英語版)に任命された。その後、1794年4月にロンドンを発ち、9月に着任するも、ショアとの不和により1798年2月に本国に召還された。 1798年11月30日、繰上勅書により、ブリックリングのホバート男爵の爵位を存命中の父から継承して貴族院議員に就任した。合同法(グレートブリテン王国とアイルランド王国の合同)をめぐる議論では合同法を支持した。ショアとの一件によりインドでの官僚に嫌われたため、(1799年1月に駐露大使への就任が噂された後)1799年8月に本国での官職任命を求めた。 1801年3月から1804年5月までアディントン内閣の陸軍・植民地大臣を務め、1804年11月14日に父が死去すると、バッキンガムシャー伯爵の爵位を継承した。ヘンリー・アディントンへの接近により小ピットの心証が悪く、小ピットが再び首相に就任するとき(第2次小ピット内閣)は国王親衛隊隊長への就任打診しかなかった(ホバートは就任を断った)。後にアディントンと小ピットが和解すると、1805年1月にランカスター公領大臣に就任、2人が再び決裂すると7月に辞任した。総人材内閣(英語版)(1806年 – 1807年)では郵政長官(英語版)の1人を務めた。第2次ポートランド公爵内閣とパーシヴァル内閣期に野党に回った後、1812年5月から6月にかけて短期間ランカスター公領大臣を再任、リヴァプール伯爵内閣の成立に伴いインド庁長官に転じ、以降死去まで同職を務めた。 1816年2月4日、落馬事故によりロンドンのハミルトン・プレイス(Hamilton Place)で死去した。息子ジョンが早世したため、弟ジョージ・ヴィアー・ホバートの息子ジョージ・ホバート=ハムデン(英語版)が爵位を継承した。
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