アディントン内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 07:49 UTC 版)
「ヘンリー・アディントン (初代シドマス子爵)」の記事における「アディントン内閣」の解説
1801年3月に小ピットがカトリック問題に躓いて退陣すると代わって彼が第一大蔵卿(首相)と財務大臣に就任した。アディントンは外務大臣に据えたロバート・ジェンキンソン(後の第2代リヴァプール伯爵)を通じてフランスと和平交渉を進め、1802年にアミアンの和約を締結し、一時的に平和を取り戻した。 彼は小ピット系議員と見られていたが、政権を降りた小ピットは庶民院議場の政府側ベンチの第三列に座ったため(この席に座るということは政府を支持するが、反対する可能性を留保することを示す)、それも怪しくなった。小ピット自身は「党派を形成して陛下の政府に反抗することは罪悪」という価値観を持つ政党政治反対派だったので、明確な反対党領袖にはなりたがらなかったが、ジョージ・カニングやウィリアム・グレンヴィルら小ピット側近たちは明確な反対党となることを小ピットに要求していた。 1803年5月にはアミアンの和約が破られ、再びフランスとの戦争状態に突入した。これによりピット再登用の機運が高まった。それでも反対党領袖になることを躊躇していた小ピットを見限ったグランヴィルは、独自に野党ホイッグ党のチャールズ・ジェームズ・フォックスと接触を開始した。これを危険視した小ピットはついに反対党となる決意を固めた。アディントンは小ピットに戦争指導の協力を要請していたが、それが見込めないことが分かると辞職を決意した。1804年5月に退陣し、小ピットに首相の地位を譲った。
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