小ピット派の一員として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 01:59 UTC 版)
「ジョージ・カニング」の記事における「小ピット派の一員として」の解説
カニングは自領がほとんどなかったため、収入を得るべく小ピットに官職を求めた。できればアイルランド担当大臣(英語版)をという要望だったが、折衝の末、1796年1月に外務政務次官に就任、同年の総選挙でウェンドヴァー選挙区(英語版)に鞍替えして再選した。同年には年収700ポンドの閑職に任命され、以降死去まで務めた。小ピット首相の意を汲んでフランスとの講和交渉を目指したが、1797年9月に対英強硬派のジャコバン派がクーデターによりフランスの政権を掌握したことで交渉はとん挫した。外務政務次官として外務大臣の初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルとともに働くことが多かったが、グレンヴィル男爵がホイッグ党員だったためカニングに嫌われ、カニングは1799年からはインド問題担当のコミッショナーの1人に転じる。1800年から1801年にかけては陸軍支払長官(英語版)を務めた。1800年に10万ポンドの財産を有するジョーン・スコットと結婚したことで経済的にゆとりができた。 小ピットは、アイルランドとの国家統合(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)にあたってカトリック解放を支持していたが、それが原因で1801年1月に閣内分裂を起こし、また国王ジョージ3世とも対立を深め、2月に総辞職を余儀なくされた。カニングも小ピットに従って下野した。その後、カニングはカトリック解放と戦争継続を支持し、庶民院において小ピットの後任の首相ヘンリー・アディントン内閣に対して激しい批判を行うようになった。小ピットははじめカニングを抑えようとしたが、結局失敗に終わり、カニングは以降死去するまでアディントン派に憎悪を向けられるようになった。 1804年5月に小ピットが再度首相となり、カニングは同内閣で海軍会計長官(英語版)に任じられた。野党期に小ピットの抑えが効かなくなったこともあり、カニングと小ピットの関係は悪化したが、カニングは1806年に小ピットが死去するまで海軍会計長官を務めた。初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルの総人材内閣(英語版)の組閣にあたって入閣を打診されたが拒否し、1807年にはポートランド公爵内閣の外務大臣に就任した。ポートランド公爵内閣への入閣にあたって、カニングは政敵アディントンを入閣させないようポートランド公爵に念を押したという。
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