小プリニウスの手紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 06:41 UTC 版)
「プリニー式噴火」の記事における「小プリニウスの手紙」の解説
「プリニー式噴火」の名は、古代ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)に由来する。西暦79年、ポンペイの街を埋没させたヴェスヴィオ火山の噴火に遭遇した大プリニウスは、知人の救助をする傍らで噴火活動の調査をしていたが、火山ガスや火山灰に巻き込まれ呼吸困難に陥って死亡した。その有様は彼の甥・ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)が書き綴った書簡に克明に記されて後世に伝えられ、それにちなんでこの噴火形式に「プリニー式噴火」の名が与えられた。 伯父の死後、小プリニウスがローマ帝国の歴史家・タキトゥスに当てた手紙: (前略)8月24日の午後、母は異様な姿と大きさの雲に気がつき、調べて欲しいと伯父に知らせました。ちょうど、水浴びと軽い昼食を済ませて書斎に戻っていた伯父は、詳しく様子を探るべく外に出て眺めの良い高みに上りましたが、この距離では様子がよく解りません(しかし、実際にはその雲はヴェスヴィオ山から噴出したものでした)。そこには雲が立ち上がっておりました。雲の形については、松の木に似ているということ以外に詳しく言い表せません。高い幹が空高く屹立し、上部では枝のように広がっておりました。上に吹き上げる突風が弱まったからか、あるいは雲自体の重みで下がってきたのか、どちらかによると思われます。雲は、土や灰の含み具合で、時に明るく、時に暗く、時にまだらに見えました。この光景は、伯父のように研究熱心な人にとっては調査研究すべき価値がある現象と思われたのです。(後略) その折、ナポリ湾北岸のミセヌムにいた大プリニウスはガレー船を用意し、知人を救助するため海路でスタビアエ(英語版)の街に至った。しかし立ち込めるスコリアで周囲が暗闇に包まれる中、火山ガスや火山灰を吸い込んで窒息し、2日後に遺体となって発見されている。
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