野党政治家として
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1963年9月12日、民政党を結成し、同党の大統領候補に指名された。同年10月15日の第五代大統領選挙では朴正熙候補(民主共和党)に僅差で敗れた。翌月11月25日に行われた第六代国会議員選挙で当選(全国区、民政党)。 1965年5月3日、野党第二党の民主党と合同して結成された「民衆党」の党首(代表最高委員)を選出するための選挙で朴順天(旧・民主党代表)に敗れる。同年7月28日、日韓基本条約の国会批准に反対し、議員辞職で抗議の意志を示すとして自ら民衆党を離党する。そして翌年3月に彼と共に議員辞職した議員と「新韓党」を結成、党総裁に就任した。 1967年2月7日、民衆党と新韓党が合同して「新民党」が結成され、尹潽善は新民党の大統領候補に指名された。しかし同年5月3日に行われた第六代大統領選挙では、朴正熙大統領に大差をつけられて敗北した。 1971年1月6日に国民党を結成、同党の総裁に就任。 1975年に「國史찾기協議會(朝鮮語版)」という歴史団体を結成し、「檀君神話の歴史性を強調しよう」「漢四郡は恥ずべきことだから朝鮮の歴史から除外しよう」という「歴史教科書波動(朝鮮語版)」という運動を起こし、韓国の歴史学界を植民史観(朝鮮語版)と非難・攻撃し、国史編纂委員会が既存の通説とは異なるため、意見を却下したところ、教育部長官を対象に訴訟を起こした。李基白(朝鮮語版)(朝鮮語: 이기백、西江大学)は、「学問の真理を尊重する立場からすると、『國史찾기協議會(朝鮮語版)』は深刻な問題を歴史学者に投げかけたと考えています。重要な問題となったのは檀君の問題ですが、檀君に関する伝承を神話にするなと歴史学者を攻撃し、何故、学生に檀君を神話と教えるのかと非難しました」「檀君の父の桓雄が天から降りて来たことを神話ではなく、歴史的事実と学生に教えることはできません」と述べている。李基東(朝鮮語: 이기동、東国大学)は、「1980年代に『歴史教科書波動(朝鮮語版)』という運動があった。全斗煥政権末期だったが、尹潽善元大統領を総裁に掲げた『國史찾기協議會(朝鮮語版)』という極右団体が主導し、韓国政府が国史教育審議会というものを作った。私は関与していたからよく知っている。これらは『檀君神話の歴史性を強調しよう』『漢四郡は恥ずべきことだから朝鮮の歴史から除外しよう』と主張した。それは間違ったことだ。その時に歴史教科書を国定教科書から検定教科書に切り替える付帯意見を付けた。ところが、最近再びその動きが出ている。先日、黄祐呂教育部長官が中国の東北工程に対処するため、歴史教科書の上古史と古代史の比重を強化すると明らかにしたが、それは彼らの論理と同じだ。とても心配だ」と述べている。 1976年3月1日、3・1民主救国宣言を金大中らと発表。1978年2月24日、民主救国宣言を咸錫憲とともに66人で発表する。このことは政府から「憲法秩序を破壊しようとする非合法活動である」と厳しく非難されて緊急措置9号違反で立件され実刑判決を受けた。 1990年7月18日に死去した。満92歳没。
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野党政治家として
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「ラッフィ・ホヴァニスィアン」の記事における「野党政治家として」の解説
2001年にホヴァニスィアンはアルメニアに帰化したが、2003年の大統領選挙(英語版)に際して裁判所は、自身が1991年の時点で帰化申請を行っていたとのホヴァニスィアンの訴えを認めなかった。このため、ホヴァニスィアンは過去10年間に渡ってアルメニアの市民である、との大統領選挙への立候補資格を満たすことができなくなった。 2002年、ホヴァニスィアンは欧米型の政治経済制度構築を目指し、「遺産(英語版)」を結党、その党首となった。遺産は2007年の議会選挙(英語版)では得票数8万1048票、得票率6パーセント、獲得議席数7議席との戦績を残した。また、『アズグ(英語版)』紙によるオンライン世論調査によれば、遺産の支持率は約25パーセントという最高位の数字となっている。選挙から2か月後の7月に行われた調査では、ホヴァニスィアン個人の支持率は82パーセントに達している。議員となったホヴァニスィアンは、就任直後から「ナゴルノ・カラバフ共和国」の国家承認を求める法案を提出するなどした。 2011年になるとホヴァニスィアンの対外姿勢はさらに強硬化し、アゼルバイジャンとトルコからの領土奪回や、ジョージアのアルメニア人(ロシア語版)の権利擁護などを主張するようになった。アラブの春に影響されたアルメニアの商業者がエレヴァンでの路上取引禁止撤廃を求めてデモを行った際には、遺産も他の政党と協力して、政府の変革を訴える集会を組織した(2011年アルメニア抗議運動(英語版))。3月15日から30日にかけて、ホヴァニスィアンは政府の腐敗を訴えるため、エレヴァンの自由広場(英語版)でハンガー・ストライキを行った。しかし、17日にデモに合流した元大統領のテル=ペトロシャンは、ホヴァニスィアンの主張には曖昧な点があり、ハンストも売名行為に過ぎない、としてホヴァニスィアンを批判している。 2012年の議会選挙(英語版)においては、遺産は得票数8万6993票、得票率5.78パーセント、獲得議席数5議席となり、ホヴァニスィアンも議員に再選された。 同年11月上旬、ホヴァニスィアンは翌2013年の大統領選挙(英語版)へ出馬する意思を明らかにした。ホヴァニスィアンはアルメニア人虐殺の承認 や「ナゴルノ・カラバフ共和国」の承認 といったナショナリズムを前面に押し出した政策を訴えたが、結果は36パーセントの得票率で2位に着け、現職のセルジ・サルキシャンに敗れた。これについてホヴァニスィアンは選挙で不正が働かれたと訴え、これに呼応した数千人の支持者がエレヴァンで政権に対する抗議行動(英語版)を行ったが、大きな混乱には至らなかった。 2017年の議会選挙(アルメニア語版)で落選。
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