三度目の野党期と死去(1768-1778)
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「ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)」の記事における「三度目の野党期と死去(1768-1778)」の解説
この後、グラフトン公爵内閣が成立し、ついで1770年1月末から長期政権となるノース卿内閣が発足した。ピットはそのどちらにも野党の立場を取った。1770年代の野党にはロッキンガム侯爵派とピット派、その他の「独立派」の議員がいたが、ピットは政党・党派を嫌っていたので、彼の派閥はさほど組織だった物とはならず、組織的なロッキンガム侯爵派より常に少数派であった。 また、ピット派とロッキンガム侯爵派は、野党共闘が取れなかった。ピットが州選出議員の増加を訴えた際にも、国王の政治介入に腐敗の原因を求めるロッキンガム侯爵派は賛成しなかった。さらに、1770年6月に、ピットに近い政治家で、議会外改革運動のウォルクス運動とピットの懸け橋となっていたウィリアム・ベックフォードが死去し、これがきっかけでピット派と議会外改革派との繋がりが失われてしまった。 1771年春にはピット派とロッキンガム侯爵派の議員が庶民院議場で衝突し、野党共闘の目は無くなった。この野党の分裂状態を背景にノース卿内閣は長期安定政権を維持することになる。 アメリカ独立戦争をめぐっては自らが作り上げた植民地帝国の崩壊を恐れ、アメリカ独立に反対した(ロッキンガム侯爵派は賛成であったため、両派の距離は更に広がった)。そのため戦争を遂行するノース卿内閣は1778年3月にピットに政権への協力要請を行ったが、ピットの条件が厳しかったため、この交渉は決裂した。 その直後の1778年4月、貴族院議場で植民地維持を訴える演説をしていた際に倒れ、一か月後の5月11日にケント州・ヘイス(英語版)で死去した。 チャタム伯爵位は長男のジョン(英語版)が継承した。ピットの派閥はシェルバーン伯爵が引き継いだ。
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