三度目の結婚と死
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文政8年(1825年)、一茶の近所ではちょっとしたスキャンダルが発生していた。かつて一茶もよく利用していた旅籠の小升屋に奉公をしていた、やをという女性が私生児を生んだのである。やをは越後の二股(妙高市)の裕福な農民、宮下家の娘であったが、柏原の小升屋に奉公に出ていた。そこで近所の柏原有数の名家、中村徳左衛門家の三男の倉次郎と親しくなり、倉吉という男の子を生んだ。出産時、やをは31歳、一方、倉次郎はまだ10代であった。中村徳左衛門家は柏原の本陣、中村六左衛門家の分家であり、当時、柏原一の地主である上に富裕な商人でもあった。その中村徳左衛門家のまだ10代の三男坊と、近くの旅籠に奉公に出ていた30過ぎの女性との間に私生児が出来たわけなので、まさにスキャンダルであった。 周囲はこのスキャンダルをどのように処理すればよいのか、頭を悩ませた。その中で浮上してきたのが一茶の存在であった。64歳の一茶は独り身でありこのままでは絶家になってしまう。しかし一茶はれっきとした自作農で、後継ぎがいれば家の存続は十分可能である。2度の中風を起こしている一茶は体が不自由で、介護が必要である。そのうえ、倉吉は私生児であるとはいえ父は柏原有数の名家、中村徳左衛門家の三男の倉次郎であり、母のやをも越後二股の富裕な農民、宮下家の娘である。前述のように小林家は柏原でも有力な家系であったが、倉吉は一茶の家を継ぐに当たって家系的に問題が無い。このような思惑から一茶とやをの結婚話が進められることになり、文政9年(1826年)8月、仲人役となったいとこの徳左衛門が結納金2朱200文を、やをの実家、越後二股の宮下家に届けた。その後まもなく一茶はやをと3度目の結婚をした。一茶64歳、やを32歳、そして連れ子の倉吉は2歳であった。しかし一茶3回目の結婚生活もわずか1年3カ月しか続かなかった。 文政10年(1827年)、65歳を迎えた一茶は、再再婚を果たし、連れ子であるとはいえ後継ぎの目途も立った。一茶にようやく平穏な晩年が訪れるかに思えた。しかし不幸は最後まで一茶の身に襲いかかる。文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原で大火が発生した。出火元は善五郎という人が住む借家であった。火は折からの南風にあおられて燃え広がり、結局柏原宿の8割以上の世帯が焼け出されるという大惨事となった。一茶の家も隣の弟、仙六の家も全焼したが、不幸中の幸いにも一茶所有の土蔵は焼失を免れた。 やむなく一茶の家族は土蔵を仮住まいとする。土蔵は高いところに窓が一つ空いているだけの、昼も薄暗い住居であった。一茶は不自由な体と言語障害を抱え、手先も震えて書字も不自由になっていた。しかし火災後もそれまでと変わらず俳諧師匠としての門人巡りを続けていた。柏原の大火後、ある門人は、一茶の話している言葉が聞き取りにくく、怒りっぽくなっていて困っていると記録している。他の記録からも晩年の一茶は短気で怒りっぽかったと記されている。 火災に焼け出された後の最晩年の一茶の作では やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ(騒ぐ) 花の影寝まじ未来が恐ろしき が良く知られている。焼け土の句は、火事で焼け出された後の焼け土のぬくもりの中、蚤が飛び跳ねる姿を詠んだものであり、加藤楸邨はこの句の「ほかりほかり」という表現は、一茶得意の擬態語を駆使した表現の中でも特に完成度が高いものであるとした上で、この句は一茶が現世における様々な苦闘の末にたどり着いた、現状をありのまま受け止めるほのかな明るさを持つ世界であると評価している。 一方、花の影の句は、詞書に「耕さずして喰ひ、織らずして着るていたらく、今までばちの当たらぬも不思議なり」とあり、花の影では寝ないようにしよう、死後の世界が恐ろしいからと、忍び寄る死の影を感じながら、農民の子として生まれながらも、耕すことなく生涯を終える罪悪感を詠んでいる。 しかし死の影をどこかに感じながらも、一茶は精力的に門人宅を巡回し続け、越後の小千谷の片貝にある観音寺に奉納する俳額の撰を行い、約1万5千句の中から丁寧に選句を行うなど、衰えを感じさせない活動ぶりを見せていた。また9月には徳左衛門に預けていた金から2両1分2朱を引き出して、土蔵の屋根を垂木まで全て取り換える修理を行った。一茶としてはまだまだ死ぬつもりなどなかった。 11月8日(1827年12月25日)、俳諧師匠としての巡回指導を終え、一茶は久しぶりに柏原の土蔵に戻った。11月19日(1828年1月5日)、気分が悪くなって横になった一茶は、その日の夕刻亡くなった。享年65歳であった。一茶の死は急死に近く、辞世は伝わっていない。一茶の遺体は荼毘に付され、遺骨は菩提寺の明専寺裏手にある先祖代々の墓地に合葬された。そして一茶の死去時、妻のやをは一茶の子を身籠っていた。
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