三度目・四度目の訪日
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「ウィリアム・インブリー」の記事における「三度目・四度目の訪日」の解説
1897年5月31日にサンフランシスコを出港したインブリー夫妻は6月14日に再び横浜の港に到着し、明治学院白金キャンパスの第4号宣教師館に入居して、直ちに明治学院神学部教授に就任した。ニューイングランドの住宅の伝統をよく表し、インブリー夫妻が住居としたこの館は現在は「インブリー館」の名で知られ、1998年(平成10年)12月25日に国の重要文化財に指定されている。東京都内に現存する最古の宣教師館であり、日本では二番目の古さと言われている。 第2次松方内閣は1899年(明治32年)7月(および8月)の不平等条約改正実施に向けて法的整備を開始した。その一環として、文部省は1899年8月3日に学校教育における宗教教育の禁止を打ち出した「訓令12号」を発令したため、インブリーら宣教師は危機感を募らせて直ちに行動を起こした。彼らは井深梶之助ら日本の有力なキリスト者とともに、手分けをして内閣総理大臣の山県有朋、伊藤博文、文部大臣の樺山資紀、貴族院議長の黒田清隆、衆議院議長の片岡健吉らと直接面談して法令の廃止を訴えた。この努力が報われて徐々に文部省の法令適用が緩和され、1903年(明治36年)にはキリスト教主義諸学校は従来の権利を回復させることができた。 インブリーは在日ミッションを社団法人にするために総理大臣の桂太郎も含めた政府関係者との交渉を地道に続け、内務省を説得してついに1901年(明治34年)11月8日に「在日本プレスビテリアン宣教師社団」として社団法人設立許可を取得した。手始めに京浜の旧居留地に残るミッションの資産を評価1円にして最小の税を納めて移管を終えた後、明治学院に無償譲渡するという以後の在日各教派の模範となる方式を実行している。 大日本帝国政府は日露戦争が始まるとロシア帝国側の宣伝する「白色人種と黄色人種」「キリスト教国と異教国」の戦争論に対し、国際社会に反論を示す必要が生じた。1904年(明治37年)5月中旬にインブリーは井深を通訳として同行させ、総理大臣官邸において総理大臣の桂太郎と面談した。インブリーは桂の意向を受けて彼との会談内容を即日、「AN INTERVIEW WITH COUNT KATSURA」(桂伯会見記)と題して4,000字の英文にまとめ、内閣総理大臣秘書官を務める中島久万吉に数日経ることなく郵送した。その後にこのコピーをイギリスおよびアメリカ合衆国に送った。ロンドンではまず『スペクテイター』誌がこれを掲載し、続いて『タイムズ』紙も載せたと言われている。インブリーと桂の会見記事はこの他にも欧米のいくつかの新聞に掲載され、その結果、桂のもとに直接海外の有力者から多くの激励の手紙が届くことになった。会見の内容が広く知れ渡ると、逆説的に日本は野蛮なロシアからキリスト教文明(英語版)を守る国と見られるまでになった。 1904年6月29日に横浜を出航して一時帰国の途についた。1905年(明治38年)10月にポーツマス条約の締結を見届けて日本に戻るが、その間に機会あるごとに桂の言葉も引用してアメリカのクリスチャンに対し、日本の立場を説明し続けた。 1909年(明治42年)2月15日に日露戦争時の功績が評価され、明治天皇から旭日章の等級「勲4等旭日小綬章」を贈られた。翌1910年(明治43年)にスコットランドのエディンバラで開催されたエディンバラ宣教会議にはアメリカ合衆国長老教会の在日代表者として(井深らとともに)出席した。 1917年(大正6年)5月に4度目の一時帰国の途についた。
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