ヘンリー・ハワード_(第12代サフォーク伯爵)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヘンリー・ハワード_(第12代サフォーク伯爵)の意味・解説 

ヘンリー・ハワード (第12代サフォーク伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/15 06:46 UTC 版)

第12代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワード
Henry Howard, 12th Earl of Suffolk
生年月日 1739年5月16日
没年月日 1779年3月7日
出身校 イートン・カレッジ
称号 ガーター勲章

内閣 ノース内閣
在任期間 1771年 - 1771年
国王 ジョージ3世

内閣 ノース内閣
在任期間 1771年6月12日 - 1779年3月7日
国王 ジョージ3世
テンプレートを表示

第12代サフォーク伯爵・第5代バークシャー伯爵ヘンリー・ハワード英語: Henry Howard, 12th Earl of Suffolk, 5th Earl of BerkshireKGPC1739年5月16日 - 1779年3月7日)は、グレートブリテン王国の政治家。1756年から1757年にかけてはアンドーバー子爵

経歴

ハワードはイートン・カレッジモードリン・カレッジで教育を受けたのち、1757年サフォーク伯を襲爵した。オックスフォード大学では1759年に文学の修士号を、1761年に民法の博士号を得た。1763年から1767年までマームズベリー執事長を務め、63年から1765年までは副軍務伯でもあった。

1771年ノース内閣枢密顧問官に任命され、北部担当国務大臣に就任するまでは王璽尚書を担っていた。アメリカ革命が起こるとヘッセンやハノーヴァーの傭兵を募り、これの鎮圧に当たらせている。また1772年グスタフ3世の反乱では、これを鎮圧しようとしたロシア帝国に反発し、スウェーデンの独立を支持した。

1778年ガーター騎士団へ列せられた。1779年3月7日に死去。遺体は1人目の妻とともにウィルトシャーのチャールトン教会へ埋葬された。

子女

ハワードは生涯2度結婚している。1764年5月25日初代ハンプデン子爵ロバート・ハンプデン=トレヴァーの娘であるマリア・コンスタンシア・ハンプデン=トレヴァーと結婚し、1子を儲けた。彼女は娘を生んだその日に死去している。

  • マリア・コンスタンシア・ハワード(1767年2月7日 - 1775年7月21日)

1777年8月14日に2人目の妻となる第3代アイルズフォード伯爵ヘンエッジ・フィンチ英語版の娘シャーロット・フィンチと結婚した。彼女との間には2子を儲けた。

第13代サフォーク伯爵ヘンリーは彼の死後に生まれた子であるが、出生2日後に死亡したため、サフォーク伯の爵号はわずか2日で大叔父が襲爵することとなった。

参考文献

外部リンク

公職
先代
エフィンガム伯爵
軍務伯
1763年 - 1765年
次代
スカーバラ伯爵
先代
ハリファックス伯爵
王璽尚書
1771年
次代
グラフトン公爵
先代
ハリファックス伯爵
北部担当国務大臣
1771年 - 1779年
次代
ウェイマス子爵
先代
ロッチフォード伯爵
貴族院院内総務
1775年 – 1779年
次代
ウェイマス子爵
イングランドの爵位
先代
ヘンリー・ハワード
サフォーク伯爵
1757年 – 1779年
次代
ヘンリー・ハワード
バークシャー伯爵
1757年 – 1779年



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヘンリー・ハワード_(第12代サフォーク伯爵)」の関連用語

ヘンリー・ハワード_(第12代サフォーク伯爵)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヘンリー・ハワード_(第12代サフォーク伯爵)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヘンリー・ハワード (第12代サフォーク伯爵) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS