在スペイン大使と在フランス大使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 03:29 UTC 版)
「ウィリアム・ナッソー・ド・ザイレステイン (第4代ロッチフォード伯爵)」の記事における「在スペイン大使と在フランス大使」の解説
1755年3月2日に宮廷に顔を出すと、宮内官(英語版)に任命され、11日に枢密顧問官の就任宣誓を行った。同年4月26日には国王ジョージ2世の不在中に政務を担う摂政官(Lord Justice)の1人に任命された。また、1756年3月6日にエセックス統監(英語版)に任命された。七年戦争期にはリチャード・リグビー(英語版)(1757年から1761年までのアイルランド担当大臣)、第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー(後に北部担当国務大臣、海軍大臣を歴任)、第2代バリントン子爵ウィリアム・バリントン(戦時大臣、財務大臣を歴任)、第4代ホルダーネス伯爵ロバート・ダーシー(南部担当国務大臣、北部担当国務大臣を歴任)など政界の要人との交友関係を得て政界への足掛かりとなった。 1760年にジョージ3世が即位したときも統監と枢密顧問官に留任した。1760年12月に寝室侍従を辞任するが、その代償として2,000ポンドの年金を与えられたが、辞任をすんなりと受け入れたためジョージ3世の信頼を勝ち取ったという。その後、1763年6月8日に在スペイン特命全権大使(英語版)に任命され、同年12月6日にマドリードに到着した。1766年7月1日に在フランスイギリス大使に任命されたが、在スペイン大使としてスペインの政治を熟知していたため、その更迭はジョージ・グレンヴィルなどに反対されたという。在フランス大使の在任中にコルシカ危機(英語版)(フランスによるコルシカ征服(英語版)に伴うイギリス政界の危機)に直面、フランス政府に抗議するもののフランスによるコルシカ併合の阻止に失敗した。この失敗の理由について、第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティからの秘密指令に従った結果とする噂と、初代マンスフィールド男爵ウィリアム・マレー(英語版)が「イギリスの内閣(グラフトン公爵内閣)が弱体で、コルシカのために戦争を起こすつもりはない」とパリでフランスの大臣に漏らしたためとする説があり、オックスフォード英国人名事典でも内閣の弱体を一因として挙げているほか、交渉における最も大事な時期に2週間も病に倒れたという不運もあったとしている。
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