北部方面の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
ロワール軍の敗北を受けて、ガンベタはルイ・フェデルブ(Louis Leon Cesar Faidherbe)将軍の北方軍に救いを求めた。北方軍はアム(Ham)、La Hallue、アミアンなどで小規模な勝利を挙げていた。フェデルブ軍の部隊は北部フランスの要塞帯に拠ってうまく守りを固めていたため、孤立したプロイセン部隊に対して素早く攻撃を掛け、速やかに要塞帯の後方に退く戦法が可能となっていた。 北部軍は、武器工場群があるリールとの連絡は付いていたものの補給にかなり苦しんでおり、兵の士気は上がりにくかった。1871年1月、ガンベタはフェデルブ将軍に命じて、要塞帯を越えて軍を進め、野戦でプロイセン軍と交戦する事を強要した。軍は既に士気も低く、補給の問題、そして極寒の気象、兵の質が低いことにも苦しめられていた一方、フェデルブ将軍も西アフリカ以来数十年にわたる転戦の結果、自身の健康状態が悪化しており有効な陣頭指揮が出来なくなっていた。 サン・カンタンの戦いにおいて、フランス北方軍は大敗を喫して四散し、数万のプロイセン軍が東部方面に向うのを許す結果となった。
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