北部方面作戦
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「ロバート・ロジャーズ」の記事における「北部方面作戦」の解説
1755年から1758年、ロジャーズとそのレンジャーズ部隊はイギリス領植民地に対する北からの接近路で作戦を展開するイギリス軍指揮官の下で働いた。その指揮官とはウィリアム・ジョンソン少将、ウィリアム・シャーリー少将、ウィリアム・ハビランド大佐およびジェイムズ・アバークロンビー少将だったが、いずれも成功しなかった。当時のイギリスはシャンプレーン湖、クラウンポイント、タイコンデロガおよびハドソン川上流で防衛的な作戦を展開する以上のことはほとんど行えていなかった。 この時期にレンジャーズ部隊は必要欠くべからざるものであることを証明した。徐々に12個中隊にまで成長し、さらにイギリス側への同盟を誓ったインディアン部隊も幾つか加えられた。ロジャーズはその指揮官代行であり、自らの中隊については直接の指揮官だった。ロジャーズはイギリス軍の上官には何度も忠告していたが、その大半は無視されていた。 1757年1月21日、第一次かんじきの戦いで、ロジャーズ・レンジャーズはカリヨン砦の近くで7人のフランス人を急襲して捕まえたが、その後で100名のフランス人およびカナダ人民兵、さらにオハイオ・カントリーから来たオタワ族インディアンと遭遇した。ロジャーズの部隊は損失を出して撤退した。 イギリス軍が1757年8月のウィリアム・ヘンリー砦で降伏した後、レンジャーズはエドワード砦に近いロジャーズ島に駐屯した。このことでイギリス正規軍よりも自由に訓練や作戦展開を行えるようになった。 1758年3月13日、第二次かんじきの戦いで、ロジャーズ・レンジャーズはフランス軍とインディアンの部隊を待ち伏せしたが、逆に敵軍に迎撃された。レンジャーズはこの戦闘で125名を失い、8名が負傷し、52名が帰還した。ロジャーズはフランスとインディアンの連合軍についても100名が戦死し、100名近くが負傷したと推計した。しかし、フランス軍はインディアン10名が戦死し、17名が負傷したとだけ損失を報告していた。 1758年7月7日、ロジャーズ・レンジャーズはカリヨンの戦いに参戦した。 1758年、アバークロンビー将軍はロジャーズの功績を認めて少佐に昇格させ、同じくらい有名なジョン・スタークを副指揮官につけた。ロジャーズはこの時任務に合わせて大尉と少佐の2つの階級を持っていたことになる。 1759年、戦争の趨勢が変わり、イギリス軍はケベック市まで進軍した。新しく北アメリカイギリス軍総司令官に指名されたジェフリー・アマースト少将が素晴らしく決定的なアイディアを持っていた。アマーストは、ニューイングランドに襲撃してくるインディアンの進発基地であるケベックのサンフランシスにいるアベナキ族に対して、ロジャーズ・レンジャーズを西からその背後深くに遠征させた。ロジャーズはクラウンポイントから200名のレンジャーズ部隊を率い、フランス領深くサンフランシスに進行した。 当時、サンフランシスに近いインディアンはその昔ながらの生活様式を諦め、フランス人伝道所に隣接する町に住むようになっていた。ロジャーズはサンフランシスの町に火を付け、200名を殺したと主張したが、実際には30名を殺し、5名を捕獲していた。1759年10月3日の攻撃とサンフランシスの破壊に続いて、ロジャーズ・レンジャーズがバーモント北部の岩だらけの荒野を抜けて帰還している時に食料が底を突いた。コネチカット川に沿った安全地帯である放棄されたウェントワース砦に到着すると、ロジャーズは兵士達にそこで宿営させておき、数日して食料を持って戻り、一番近いイギリス人町である現在のニューハンプシャー州チャールズタウンの第4砦から部隊を救出した。 ロジャーズ・レンジャーズがサンフランシスの町を破壊したことは心理的な大きな勝利になった。植民地人はもはや救われないと考えることはなくなった。サンフランシスの住人であるアベナキ族などの寄り集まり集団は、以前のように敵の攻撃が及ばない場所にいるという考えを棄てた。アベナキ族によるフロンティアでの襲撃は止まなかったが、かなりその数は減少した。 タイコンデロガ砦(別名カリヨン砦) マサチューセッツを流れるコネチカット川 ケベックのエイブラハム平原
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