ゴラン高原方面
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詳細は「ゴラン高原の戦い(ヘブライ語版)」、「ナファク基地攻防戦」、「涙の谷」、および「第一次ヘルモン山攻防戦(英語版)」を参照 ゴラン高原方面では13時58分からのシリア空軍機による空爆に続き、14時5分、野砲・ロケット砲約300門が15時まで攻撃準備射撃の後、5個師団(3個歩兵師団、2個戦車師団後方で待機)がゴラン高原に突入した。 対するイスラエル軍部隊は停戦ライン上の警戒部隊を除けば1個機甲師団(第36機甲師団)、戦車数にしてシリア軍1,220輌対イスラエル軍177輌 である。 ゴラン高原北側へのシリア軍第7歩兵師団の攻撃はうまくいかなかった。第36機甲師団所属の第7機甲旅団は停戦ライン付近の丘に陣取り、第7歩兵師団の戦車や車輌を次々と撃破したのちに「涙の谷」と呼ばれることになるこの場所で、第7歩兵師団は後方に待機していた第3戦車師団や精鋭の共和国親衛旅団の増援を得つつ、昼夜を問わず攻撃を仕掛けた。10月9日には第7機甲旅団も稼働戦車が7輌(定数105輌)にまで低下した が、シリア軍は結局最後まで第7機甲旅団の陣地を突破することはできなかった。シリア軍は戦車260と他車輌500 を失う。 これと対照的に、ゴラン高原中部・南部の攻撃を担当した第9、第5歩兵師団の攻撃は比較的順調に進んだ。こちらの守備を担当したイスラエル軍の第188機甲旅団(戦車定数72輌)は第7機甲旅団と同様、停戦ライン上でシリア軍戦車を迎え撃ったが、担当正面が広すぎ(停戦ラインは全長65km だが、うち40kmを第188機甲旅団が担当した)、6日夕方にはシリア軍の450輌に対して第188機甲旅団の稼働戦車は15輌 にまで低下、シリア軍に包囲された上(夜間にシリア軍の間隔を縫って退却した)、翌7日には第188機甲旅団の旅団長、副旅団長、作戦参謀が三人とも戦死するという事態が起こった。最終的に将校の9割が死傷した 第188機甲旅団にシリア軍を止めるすべはなく、シリア軍は後方の第1戦車師団も投入してゴラン南部でイスラエル軍の防衛線を突破した。 6日夜、これらのシリア軍とイスラエル本土の間にイスラエル軍の部隊が皆無なことに気付いたイスラエル軍は、動員を完了した予備役部隊を中隊ごと、時には小隊ごとに逐次ゴラン高原に投入しなければならなかった。こうした部隊を率いた戦車兵の一人、ツビ(ツビカ)・グリンゴールド(英語版)中尉が指揮した小隊規模の戦車隊「ツビカ隊」は夜間にゴラン高原を南北に走るTAPライン上に展開、ゴラン高原中部に位置する第36機甲師団の指揮所があったナファク基地(ヘブライ語版)に向かおうとする第5歩兵師団の戦車を一晩中延滞させることに成功した。 だが7日正午にはシリア軍第1戦車師団のT-55戦車がナファク基地に突入、第36機甲師団長ラファエル・エイタン少将や師団参謀も武器を取るほどの混戦となったが、「ツビカ隊」をはじめ各戦車隊がこれを撃退。 この頃になると、イスラエル軍の予備役部隊である2個機甲師団(第210(英語版)、 第146予備役機甲師団(ヘブライ語版))がゴラン高原展開を完了。8日からこれら2個師団によりゴラン高原南部で反撃に出たイスラエル軍は、10日までにシリア軍をゴラン高原から追い出した。 これに前後して10月6日、シリア軍第82空挺大隊がヘルモン山頂のイスラエル軍監視哨を占領。イスラエルにとって「国家の目」であるヘルモン山をシリア軍に砲兵観測所として利用されるのを恐れたイスラエル軍は8日、ゴラニ歩兵旅団による奪回作戦を試みたが、失敗した。
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ゴラン高原方面
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10月11日、イスラエル軍は再編成ののちゴラン高原北部からシリア領への逆侵攻を開始。シリア軍や新たに参戦したイラク・ヨルダン軍などの抵抗を受けながらも、イスラエル軍はシリアの首都ダマスカスを長距離砲の射程に収められる位置まで進軍したが、それ以上の進撃は中止された。アラブ側が必死の抵抗をしただけでなく、ダマスカスを陥落させるとソ連軍が参戦するとの警告がアメリカよりもたらされたからとされている[要出典]。
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ゴラン高原方面
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ダマスカス平原周辺では戦闘は小競り合い程度にとどまっていたが、21日夜、停戦決議を前にしてイスラエル軍によるヘルモン山の奪回作戦が再び行われた。シリア側山頂は容易に占領できたものの、イスラエル側山頂ではシリア空挺部隊の反撃が苛烈でイスラエル軍は多数の死傷者を出した。しかし22日の午前11時には山頂の観測所周辺が奪回された。23日、ダマスカス平原においてシリア軍とイラク軍、ヨルダン軍による攻勢が予定されていたものの、シリアが停戦決議(後述)を受諾したために攻勢は中止され、戦闘は終結することとなった。
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ゴラン高原方面(北部戦線)
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「10月14日の戦車戦」の記事における「ゴラン高原方面(北部戦線)」の解説
詳細は「ダマスカス平原の戦い (第四次中東戦争)(英語版)」を参照 一方、ゴラン高原方面では10月10日までにヘルモン山を除いてゴラン高原からシリア軍は撃退され、翌11日、イスラエル北部方面軍の3個機甲師団がシリアの首都、ダマスカスを目標として進撃を開始した。シリア軍は頑強に抵抗したもののイスラエル軍はダマスカスを長距離砲(175mm自走砲M107)の射程に収めることのできるダマスカス南20Kmの地点の丘(テル)、テル=シャムスを占領した。しかしシリア側にイラク軍第3戦車師団・ヨルダン軍第40機甲旅団が参戦するとイスラエル軍もこれ以上側面を危険にさらすわけにもいかず、またダマスカス占領によりソ連が介入することを恐れたため、北部方面軍はダマスカス占領を断念し、進撃を停止した。 とはいえダマスカスはテル=シャムスからの砲撃だけでなく、イスラエル空軍機からの空爆にも連日さらされており、シリアのハフェズ・アル=アサド大統領からすれば自分たちが苦戦している中、エジプト軍は攻勢に出ることもなくスエズ運河東岸にとどまっているのは何事か、という気分であった。そこでアサドはエジプト軍に対し、攻勢を行うよう要請した。
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