墨俣城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/25 08:45 UTC 版)
墨俣城 (岐阜県) | |
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墨俣城跡に建つ歴史資料館 | |
別名 | 一夜城 |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし(複合式層塔型3重4階、RC造模擬) (当時は高さ三間半の二階建て高櫓があった) |
築城主 | 不明(木下秀吉、長康・小六ら蜂須賀党か) |
築城年 | 不明(1561年/1566年か) |
主な改修者 | 伊木忠次 |
主な城主 | 不明(木下秀吉か) |
廃城年 | 不明 |
遺構 | なし |
指定文化財 | 大垣市指定史跡[1] |
再建造物 | 模擬天守(資料館) |
位置 | 北緯35度22分1.54秒 東経136度41分15.76秒 / 北緯35.3670944度 東経136.6877111度 |
地図 |
概要
築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)[2]の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城である。信長はこの城を足掛かりとして、美濃攻略に成功し、秀吉も出世の道を開いたとされる。ところが信長にとっても、秀吉にとっても重要なこの事件について、太田牛一の信長公記をはじめとする良質の史料には、全く記載がない[3]。
秀吉が一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせる史料的な裏付けがない。 今後、そうした史料が見出せぬ限り、秀吉が築いたという墨俣一夜城は、実在しなかったと判断せざるを得ない[4]。
現在の墨俣城
現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城の天守を模した大垣市墨俣歴史資料館(墨俣一夜城)が建てられているが、大垣城天守は江戸時代に整備されたものであり時代的に合わない。実際の墨俣城は簡易な建築や柵で構成されたものであったとされている。また、公園内にある白鬚神社(の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれた際に分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。
墨俣城 - 資料
墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは天正12年(1584年)4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修したとある。その2年後の天正14年(1586年)6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、以来この地が城として使われることはなかった。
- 『信長公記』
豊臣秀吉の墨俣築城に関するそのほかの史料を以下にあげる。
- 『甫庵太閤記』
- 『武功夜話』(前野家古文書)
文学作品(軍記物)への引用
- 『絵本太閤記』
- 『新史太閤記』
脚注
参考文献
- 原田実「豊臣秀吉は美濃墨俣に一夜城を築いた!!」『トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義』文芸社、2007年6月。ISBN 978-4-286-02751-7。
- 藤本正行「墨俣一夜城は実在したか」(『歴史読本』1985年新年号)
- 藤本正行『信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像―』(JICC出版局、1993年)
- 藤本正行、鈴木眞哉『偽書『武功夜話』の研究』洋泉社〈新書y〉、2002年4月。ISBN 4-89691-626-3。
関連項目
外部リンク
- 墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)(大垣市ホームページ) - 当時の洲股砦の北西側にある、外観は模擬天守。
- 墨俣一夜城 築城史料 偽作か事実か 朝日新聞
墨俣城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 04:44 UTC 版)
『絵本太閤記』に初めて見られるとされ、『前野家古文書』に墨俣築城の経緯が記されている。しかし、織田信長にとっても、豊臣秀吉にとっても重要なこの築城にについて、太田牛一の『信長公記』をはじめとする良質の史料には、全く記載がない。秀吉が一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせる史料的な裏付けがない。今後、そうした史料が見出せぬ限り、秀吉が築いたという墨俣城は、実在しなかったと断言せざるを得ない。
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