墨俣城 - 資料
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 08:35 UTC 版)
墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは天正12年(1584年)4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修したとある。その2年後の天正14年(1586年)6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、以来この地が城として使われることはなかった。 織田信長の戦国時代から安土桃山時代にかけての史料。 『信長公記』太田牛一著。 巻首「十四条合戦の事」に、永禄4年5月上旬(1561年6月中旬頃)、洲股要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及んで勝利、洲股帰城の後これを引き払う、との記述がある。洲股要害の修築を誰に担当させたかについては言及されていない。 豊臣秀吉の墨俣築城に関するそのほかの史料を以下にあげる。 『甫庵太閤記』小瀬甫庵著、寛永3年(1626年)成立 永禄9年(1566年)に秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった、という記述がある。 城の場所や城名は明らかではなく、また墨俣の地名は甫庵が著作中で何度も使用しているのにもかかわらず、この箇所の記述においては用いていないことから、ここで秀吉が入れられた城は墨俣とは別の、木曽川沿いの場所のどこかであったとも読みとることができる。 また、記述の中にも閏月が考慮されていないなどいくつか問題点がある。 『武功夜話』(前野家古文書)昭和34年(1959年)に発見された前野家古文書のうちの『永禄州俣記』、一部が『武功夜話』昭和62年(1987年)出版。 江戸時代初期までにまとめられたと言われている同書には、墨俣一夜城築城の経緯が克明に記録されており、ほとんど伝説として扱われてきた一夜城の実態を知りうる史料と考えられている。しかし、偽書説も根強く、資料としての信頼性には意見が分かれるところである。現在、墨俣一夜城の逸話が史実として紹介される場合、その詳細はこの『前野家古文書』に多くを拠るもので、墨俣城跡にある墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)も『前野家古文書』に基づいて展示を行っている。
※この「墨俣城 - 資料」の解説は、「墨俣城」の解説の一部です。
「墨俣城 - 資料」を含む「墨俣城」の記事については、「墨俣城」の概要を参照ください。
- 墨俣城 - 資料のページへのリンク