第二次対仏大同盟: イタリア戦線
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「ポーランド軍団」の記事における「第二次対仏大同盟: イタリア戦線」の解説
1798年末から1799年初頭、第二次対仏大同盟戦争が勃発した。この戦争が始まって1年するころには、ポーランド軍団の規模は約1万人に達していた。しかし、ナポレオンがフランスの精鋭部隊とともにエジプト遠征から帰ってこないところで対仏同盟軍がイタリアに侵攻してきたため、ポーランド軍団の直面した状況は以前よりも厳しいものだった。1799年は、ポーランド軍団が多大な犠牲を払った年となった。この年の6月17日から19日にかけて、ドンブロフスキ率いる第一軍団はトレッビアの戦いでロシア軍と戦い、敗れた。軍団を構成する五個大隊のうち、生き残ったのはわずか二個大隊で、ドンブロフスキ自身も負傷した。ポーランド軍団はノヴィの戦い (7月15日) や第二次チューリッヒの戦い (9月26日)にも参戦した。 第2軍団の損害もひどかった。アディジェ川の戦い (1799年3月26日 – 4月5日) では、4000人の兵のうち半数から3分の2が戦死するという大打撃を被った。マグナーノの戦い (4月5日) では、フランツィシェク・リュムキェヴィチ大将が戦死した。残存兵はマントヴァの守備兵に加えられたが、ここも間もなくオーストリア軍に包囲された。このマントヴァ包囲戦の末、7月にフランス軍司令官フランソワ=フィリップ・ド・フォワサック=ラトゥールは降伏を決断した。ユゼフ・ヴィエルホルスキ配下のポーランド兵たちは勝者のオーストリア軍から「オーストリアの脱走兵」と見なされ、暴行を受けた末にオーストリア軍に強制的に編入されるかオーストリア領ポーランドへ送還された。これをもって第2軍団は消滅したが、ごく一部のポーランド人兵が脱出に成功した。フランス軍の中でもフランス人は特に攻撃を受けぬまま撤退を許された。
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