大日本恵登呂府
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大日本恵登呂府(だいにほんえとろふ、大日本恵土呂府とも表記される)は、寛政10年(1798年)と同12年(1800年)の2度にわたり、幕臣で探検家の近藤重蔵らによって択捉島内の2か所(南端に近いタンネモイ、北端のカモイワッカ岬(「カモイワッカ」は「カムイワッカ」とも記す)に建てられた標柱。
注釈
- ^ 工藤平助は『赤蝦夷風説考』のなかでロシアの蝦夷地進出の実情を報告し、蝦夷地の沿革や開発の必要性、さらにロシアとの交易を説いた[3]。田沼は本書をきっかけに蝦夷地開発計画を立てたといわれるほど、その影響は大きいものであった[3]。天明6年(1786年)には林子平がロシアのシベリア進出の動向を日本の危機ととらえる『海国兵談』を著し、海防の必要を説いている[3]。
- ^ ブロウトン探検隊は、シベリア東端、日本の太平洋沿岸、琉球列島、台湾、朝鮮半島、沿海州を広範囲に調査し、外国船としては初めて津軽海峡を横断した[6]。
- ^ 幕府としては、鰊粕などニシン肥の普及などにより蝦夷地の経済的価値が高まっていることも、探検の動機となりうるものであった[6]。
- ^ 近藤重蔵は、北方調査の成果を『辺要分界図考』として著している[8]。
- ^ 江戸幕府による蝦夷地幕領化は、(1)1799年から1806年までの東蝦夷地(浦河郡以東、太平洋側から知床・国後に至る地域)の上知、(2)1807年から1821年までの松前地(和人地)・西蝦夷地(日本海・オホーツク海側)の上知、という2段階で実施された[13]。
- ^ 近藤重蔵は、琉球支配を認めた薩摩藩への朱印状とは異なり、幕府が松前藩に発給した朱印状・黒印状には蝦夷地の領有を認めたものは全くないので蝦夷地公領化は充分に法的根拠を有していると主張した[13]。
- ^ アイヌへの同化政策は、従来の和語(日本語)禁止ではなく、和語奨励であり、かな文字を教え、和人風の氏名に改めさせたり、衣服を日本風にするなどであったが、帰俗の証として特に重んじられたのが頭髪を結ぶ、髭を剃る、入れ墨をやめるなどの身体風俗であった[14][16][17]。また、穀食を勧め、徐々に耕作をおこなうことも奨励された[17]。
- ^ 島のアイヌはそれまで、獣の皮革や鳥の羽毛で衣服をつくり、鍋なども数戸に1戸しかなく、漁具はヤスしかなかったという[14]。総じて彼らはきわめて貧困であった[14]。
- ^ このとき、カモイワッカ岬近くの丘にロシア人が立てていた十字架は倒されたともいわれている[8]。ただし、河野常吉はこれを否定している[10]。
- ^ 淡路国の貧農に生まれた高田屋嘉兵衛は、北前船の交易によって資金を蓄え、自立した廻船業者となったが、東蝦夷地仮上知に際しては択捉島に漁場を開いたのち、本店を箱館において蝦夷地の豪商となった[12][21]。嘉兵衛は、文化7年(1810年)には択捉場所の請負を命じられた[21]。文化8年(1811年)、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ヴァシーリー・ゴロヴニーンは、日本の警備兵に捕縛されて箱館・松前に収監された[12]。これに対し、ロシアは報復として嘉兵衛を抑留した[12]。嘉兵衛は文化10年(1813年)に送還され、彼の尽力でゴロヴニーンが釈放され、ゴローニン事件は解決した[12]。なお、蝦夷地経営が江戸幕府や警固担当の諸藩の財政を圧迫するようになり、松前藩が粘り強く復領運動を展開したこともあって、1821年(文政4年)、全蝦夷地が松前藩に返還された[12][22]。それにともない、西蝦夷地のみならず東蝦夷地でも場所請負制へ回帰していった[12]。
- ^ こののち、享和2年(1802年)には、蝦夷地の統括機関としての蝦夷奉行(同年、箱館奉行と改称)が設置され、翌3年には、ロシア人との接触を避けるため、アイヌの得撫島への出稼ぎが禁止された[20]。
- ^ 河野は、さらに国後島北東部と択捉島北東部には、シベトロ(シベトロベツ) - カモイワッカオイ(ワッカオイ) - アトイヤ という類似の地名が西から東に向け、同様に並んでいることを指摘している[10]。
- ^ 「大日本地名アトイヤ」の標柱は、1879年(明治12年)に函館博物館開設の際、同館で陳列し、1892年(明治25年)以降は函館商業学校、同校廃校後は函館中学校が管理した[10]。その後、函館市北洋資料館の収蔵品となっている。柱は根元より切り取られており、長さ6尺7寸5分(約204.5センチメートル)、幅6寸2分(約18.8センチメートル)、厚さ3寸4分(約10.3センチメートル)で土中にあった部分の長さ等は不明である[10]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j “歴史 北方対策本部”. 北方対策本部. 内閣府. 2022年6月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 木村(1998)pp.32-39
- ^ a b c 藤田(1989)pp.218-223
- ^ a b c d e f g h i j k l 賀川(1992)pp.207-211
- ^ a b c d e f g h i j k 田端(2000)pp.128-133
- ^ a b 井上(2009)pp.114-116
- ^ a b c “函館市史 通説編1 第3編 - 第3章 - 第1節 東蝦夷地直轄の経緯:幕府の蝦夷地調査”. 函館市/函館市地域史料アーカイブ. ADEAC. 2022年6月5日閲覧。
- ^ a b c 下村(1979)p.687
- ^ a b c “幕府による北方領土の本格統治”. 北方領土問題とは. 北海道別海町. 2022年6月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 河野常吉「國後擇捉の建標に關する斷案」『札幌博物学会会報』第4巻第1号、札幌博物學會、1912年9月、43-50頁、NAID 120006774209。
- ^ a b c 川上(2011)pp.205-206
- ^ a b c d e f g h 井上(2009)pp.116-119
- ^ a b c 桑原(1994)pp.202-205
- ^ a b c d e f g 新城(1979)pp.85-86
- ^ a b c 井黒(1994)
- ^ 菊池(1991)pp.249-251
- ^ a b 田端(2000)pp.133-137
- ^ 賀川(1992)p.116
- ^ a b 菊池(1991)pp.248-249
- ^ a b 宮地(2012)pp.18-20
- ^ a b c 賀川(1992)p.212
- ^ 宮地(2012)pp.20-22
- ^ a b 麓(1994)
- 1 大日本恵登呂府とは
- 2 大日本恵登呂府の概要
- 3 脚注
- 4 外部リンク
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