江戸幕府 - ロシア帝国時代とは? わかりやすく解説

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江戸幕府 - ロシア帝国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:12 UTC 版)

北方領土問題」の記事における「江戸幕府 - ロシア帝国時代」の解説

1725年ロシア帝国海軍士官のマルティン・シュパンベルクは、日本への航路探索のため、千島列島探検船南下した。彼は千島列島ラッコオットセイなどの海獣に富むことを発見した1738年元文3年)シュパンベルクはさらに日本沿岸航海し房総半島伊豆半島などにも到達した元文の黒船)。 翌1739年には、シュパンベルクはロシア人として初め千島列島などの地図作ったという。これは、ロシア帝国初代皇帝であったピョートル1世在位1682年-1725年)が東方関心持っていたことから、その死の直前同国海軍大佐ベーリング探検命じて探検隊組織させた結果であった1754年宝暦4年松前藩国後島に「場所(同藩が間接的に支配する交易の場)」を設置し国後島択捉島得撫島に強い影響を持つようになった18世紀ロシア南下勢力千島列島達し島々の名をロシア名にしたほか、アイヌから税として毛皮取り立てたアイヌの生活は苦しくなり、ロシア人への反抗繰り返された。 1760年代ロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島アイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録残されている。 1778年安永7年)ロシアラッコ捕獲事業パベル・レベデフ=ラストチキン商会のオチエレデンは、千島列島得撫島根拠地としていたが、3隻の船で根室のノツカマップへ上陸した千島列島にいるロシア人たちは本国から遠く離れているため食料物資の不足悩まされており、日本交易して生活物資得よう考えていた。 オチエレデンは日本松前藩役人交易提案したところ、同役人は「外国との交易国法禁じられている(鎖国)ので、今はどうにもならない藩主指示受けて来年回答する」と回答してオチエレデンを根拠地帰した。 これは日本とロシアとの初めての接触であった1779年オチエレデンらは厚岸で再び会見し日本役人は「交易許可できない。ただし得撫島のアイヌ仲介者として択捉島アイヌ交易することは許可する。どうしても日本との交易を望むなら、長崎当時日本外国との窓口)まで行って申し出なさい」と告げた1785年天明5年日本江戸幕府ロシア千島列島進出危機感持ち、もはや松前藩単独では対抗できないことから、北方四島千島列島役人派遣して実地調査行った派遣され探検家最上徳内らが蝦夷地から得撫島までを踏破した最上記した蝦夷草子によれば最上らは国後島から択捉島渡ってロシア南下状況調査し得撫島上陸して得撫島以北諸島情勢察知したいう。日本人では最初得撫島の上であったその際択捉島にはすでに3名のロシア人居住していた。またアイヌ中に正教信仰する者がいたことが知られており、同時期、すでにロシア人足跡があったとされる(ただし、正教ロシア人ロシア国民以外にも信仰されているものであり〈例:ギリシャ正教会ブルガリア正教会日本正教会〉、正教徒が必ずロシア人とは限らない)。 1792年寛政4年ロシア皇帝エカチェリーナ2世国書携えた軍人アダム・ラクスマンが、日本からロシアへ漂流であった大黒屋光太夫らを伴って軍艦根室来航した国書内容は「ロシアはこの地方必要な生活物資日本との交易によって得たい」というものだった松前藩急いで江戸幕府報告し指示仰いだ1793年寛政5年日本江戸幕府ラクスマン返答し内容は「漂流民の送還については感謝する。しかし江戸事実上首都)への来航許可できない日本国法により通商できない長崎においてなら話し合う」というものだった結局ラクスマン長崎への入港許可証与えられただけで本国引き返したロシアラクスマン報告によって、日本との交易有望だ考えた同国得撫島移民4家族をはじめ58人を送りロシア基地再建した1798年寛政10年江戸幕府大規模な蝦夷地巡察隊を派遣した。この隊の一人であった近藤重蔵最上徳内案内役とし、択捉島の丹根萌に日本領を示す「大日本恵登呂府」の標柱建てた1799年寛政11年江戸幕府国防上の必要から千島樺太を含む蝦夷地幕府直轄地天領)として統治することとし近藤をその処置任命した近藤船頭高田屋嘉兵衛とともに北方四島訪れた国後島択捉島との間の航路は大変困難とされており、嘉兵衛大きな功績であった1800年江戸幕府ロシアとの国境接す択捉島開発乗り出した近藤は嘉兵衛とともに、嘉兵衛開拓した航路によって再び択捉島渡った本土と同じ郷村制採用し17か所の漁場開いた。彼らはこのときも択捉島のカムイワッカオイの丘に 「大日本恵登呂府と書いた標柱建てた。また航路や港を整備したほか、アイヌ漁法伝授し漁具与えた1801年享和1年江戸幕府択捉島などに役人常駐させ、南部藩津軽藩本州北端拠点としていた。現在の青森県から岩手県北部にあたる)から100人あまりの藩士送って国後島択捉島防備固めた。こうして日本による色丹島国後島択捉島本格的開発始められた。 1804年文化1年ロシア帝国外交官ニコライ・レザノフ露米会社の設立者)が、日本との通商求めて長崎来航した1793年ラクスマン報告基づいたものであったが、江戸幕府レザノフらを半年近く待たせたすえに通商拒否したレザノフはもはや日本門戸開かせるためには武力で脅かすしか方法がないと考え部下命じて樺太択捉島襲撃し放火暴行略奪行った江戸幕府はこれに対してロシア船の打ち払い命じた1807年文化4年ロシア露米会社武装船2隻が択捉島襲った露米会社南部津軽両藩の守備隊破り番屋会所乱入して物品略奪し建物焼いた松前奉行支配調役であった戸田太夫は、責任をとって自決した1811年文化8年ロシア軍艦ディアナ号艦長ヴァシーリー・ゴロヴニーン少佐らが、クリル千島列島測量命じられ国後島訪れた際、江戸幕府によって捕縛された。ディアナ号副艦長ピョートル・リコルド(ロシア語版)は報復として日本船を襲い幕府御雇船頭高田屋嘉兵衛捕縛した。嘉兵衛努力により、日本とロシアがゴロヴニーンと嘉兵衛とを互いに交換して釈放したゴローニン事件)。 これらの事件の原因は、日本とロシアとの国境曖昧なままであったためであった。。 1813年文化10年上述のような事件契機に、日本とロシアとが国境策定交渉始めた両国間の国境を「日本択捉島以南ロシア新知島以北とし、その中間にある得撫島両国の混住の地とする」とすることについて交渉する予定であったが、翌年約束したロシア船が日本来航しなかったために交渉成立しなかった。 1821年文政4年日本とロシアとの緊張緩和されてきたため、江戸幕府蝦夷地直轄支配することを中止し、再び松前藩統治させるように転じた

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