江戸幕府 - ロシア帝国時代
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「北方領土問題」の記事における「江戸幕府 - ロシア帝国時代」の解説
1725年ロシア帝国海軍士官のマルティン・シュパンベルクは、日本への航路探索のため、千島列島を探検船で南下した。彼は千島列島がラッコやオットセイなどの海獣に富むことを発見した。 1738年(元文3年)シュパンベルクはさらに日本沿岸を航海し、房総半島や伊豆半島などにも到達した(元文の黒船)。 翌1739年には、シュパンベルクはロシア人として初めて千島列島などの地図を作ったという。これは、ロシア帝国の初代皇帝であったピョートル1世(在位1682年-1725年)が東方に関心を持っていたことから、その死の直前に同国の海軍大佐ベーリングに探検を命じて探検隊を組織させた結果であった。 1754年(宝暦4年)松前藩は国後島に「場所(同藩が間接的に支配する交易の場)」を設置し、国後島と択捉島、得撫島に強い影響を持つようになった。 18世紀ロシアの南下勢力は千島列島に達し、島々の名をロシア名にしたほか、アイヌから税として毛皮を取り立てた。アイヌの生活は苦しくなり、ロシア人への反抗が繰り返された。 1760年代ロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。 1778年(安永7年)ロシアのラッコ捕獲事業者パベル・レベデフ=ラストチキン商会のオチエレデンは、千島列島の得撫島を根拠地としていたが、3隻の船で根室のノツカマップへ上陸した。千島列島にいるロシア人たちは本国から遠く離れているため食料や物資の不足に悩まされており、日本と交易して生活物資を得ようと考えていた。 オチエレデンは日本の松前藩の役人へ交易を提案したところ、同役人は「外国との交易は国法で禁じられている(鎖国)ので、今はどうにもならない。藩主の指示を受けて来年回答する」と回答してオチエレデンを根拠地へ帰した。 これは日本とロシアとの初めての接触であった。 1779年オチエレデンらは厚岸で再び会見し、日本の役人は「交易は許可できない。ただし得撫島のアイヌを仲介者として択捉島のアイヌと交易することは許可する。どうしても日本との交易を望むなら、長崎(当時の日本の外国との窓口)まで行って申し出なさい」と告げた。 1785年(天明5年)日本の江戸幕府はロシアの千島列島進出に危機感を持ち、もはや松前藩単独では対抗できないことから、北方四島や千島列島に役人を派遣して実地調査を行った。 派遣された探検家の最上徳内らが蝦夷地から得撫島までを踏破した。最上が記した「蝦夷草子」によれば、最上らは国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を調査し、得撫島に上陸して得撫島以北の諸島の情勢も察知したいう。日本人では最初の得撫島への上陸であった。 その際、択捉島にはすでに3名のロシア人が居住していた。またアイヌの中に正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、すでにロシア人の足跡があったとされる(ただし、正教はロシア人・ロシア国民以外にも信仰されているものであり〈例:ギリシャ正教会、ブルガリア正教会、日本正教会〉、正教徒が必ずロシア人とは限らない)。 1792年(寛政4年)ロシア皇帝エカチェリーナ2世の国書を携えた軍人アダム・ラクスマンが、日本からロシアへの漂流民であった大黒屋光太夫らを伴って軍艦で根室へ来航した。 国書の内容は「ロシアはこの地方で必要な生活物資を日本との交易によって得たい」というものだった。松前藩は急いで江戸幕府に報告し、指示を仰いだ。 1793年(寛政5年)日本の江戸幕府はラクスマンへ返答し、内容は「漂流民の送還については感謝する。しかし江戸(事実上の首都)への来航は許可できない。日本の国法により通商はできない。長崎においてなら話し合う」というものだった。結局、ラクスマンは長崎への入港許可証を与えられただけで本国へ引き返した。 ロシアはラクスマンの報告によって、日本との交易が有望だと考えた。同国は得撫島に移民4家族をはじめ58人を送り、ロシアの基地を再建した。 1798年(寛政10年)江戸幕府は大規模な蝦夷地巡察隊を派遣した。この隊の一人であった近藤重蔵は最上徳内を案内役とし、択捉島の丹根萌に日本領を示す「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。 1799年(寛政11年)江戸幕府は国防上の必要から千島・樺太を含む蝦夷地を幕府の直轄地(天領)として統治することとし、近藤をその処置に任命した。近藤は船頭の高田屋嘉兵衛とともに北方四島へ訪れた。国後島と択捉島との間の航路は大変困難とされており、嘉兵衛の大きな功績であった。 1800年江戸幕府はロシアとの国境を接する択捉島の開発に乗り出した。近藤は嘉兵衛らとともに、嘉兵衛が開拓した航路によって再び択捉島に渡った。本土と同じ郷村制を採用し、17か所の漁場を開いた。彼らはこのときも択捉島のカムイワッカオイの丘に 「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てた。また航路や港を整備したほか、アイヌへ漁法を伝授し漁具を与えた。 1801年(享和1年)江戸幕府は択捉島などに役人を常駐させ、南部藩と津軽藩(本州の北端を拠点としていた。現在の青森県から岩手県北部にあたる)から100人あまりの藩士を送って国後島と択捉島の防備を固めた。こうして日本による色丹島、国後島、択捉島の本格的開発が始められた。 1804年(文化1年)ロシア帝国の外交官ニコライ・レザノフ(露米会社の設立者)が、日本との通商を求めて長崎へ来航した。1793年のラクスマンの報告に基づいたものであったが、江戸幕府はレザノフらを半年近くも待たせたすえに通商を拒否した。レザノフはもはや日本の門戸を開かせるためには武力で脅かすしか方法がないと考え、部下に命じて樺太や択捉島を襲撃し、放火、暴行、略奪を行った。 江戸幕府はこれに対してロシア船の打ち払いを命じた。 1807年(文化4年)ロシアの露米会社の武装船2隻が択捉島を襲った。露米会社は南部・津軽両藩の守備隊を破り、番屋や会所に乱入して物品を略奪し、建物を焼いた。松前奉行支配調役であった戸田亦太夫は、責任をとって自決した。 1811年(文化8年)ロシアの軍艦ディアナ号の艦長ヴァシーリー・ゴロヴニーン少佐らが、クリル(千島)列島の測量を命じられて国後島を訪れた際、江戸幕府によって捕縛された。ディアナ号の副艦長ピョートル・リコルド(ロシア語版)は報復として日本船を襲い、幕府御雇船頭の高田屋嘉兵衛を捕縛した。嘉兵衛の努力により、日本とロシアがゴロヴニーンと嘉兵衛とを互いに交換して釈放した(ゴローニン事件)。 これらの事件の原因は、日本とロシアとの国境が曖昧なままであったためであった。。 1813年(文化10年)上述のような事件を契機に、日本とロシアとが国境策定の交渉を始めた。 両国間の国境を「日本は択捉島以南、ロシアは新知島以北とし、その中間にある得撫島は両国の混住の地とする」とすることについて交渉する予定であったが、翌年に約束したロシア船が日本へ来航しなかったために交渉は成立しなかった。 1821年(文政4年)日本とロシアとの緊張が緩和されてきたため、江戸幕府は蝦夷地を直轄支配することを中止し、再び松前藩へ統治させるように転じた。
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