第1回から第二次大戦終結まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 05:33 UTC 版)
「バイロイト音楽祭」の記事における「第1回から第二次大戦終結まで」の解説
ワーグナーはかねてから、己の楽劇を、他人の手に触れさせず己の理想的な形で上演することを夢見て、劇場用の土地を捜し求めていた。しかしなかなか理想的な場所は見つからず、苦心して捜し出した土地も、政治的な理由などで追い出されたりした。やがて親しくしていたバイエルン国王ルートヴィヒ2世により、バイロイト辺境伯夫人ヴィルヘルミーネ(プロイセン王フリードリヒ2世の姉)が建築した辺境伯劇場があった、バイロイトの地を提供された。だがそこにあった劇場にも満足できなかったワーグナーは、自ら劇場を建築することを決心する。ルートヴィヒ2世からの資金提供を受け、定礎式の収入なども建築費用に充てた。あくまで「仮住まい」として建築されたため、建築費用は抑えられた。余った費用は、別荘であるヴァンフリート館建築などに充てられた。しかし、それ以外の費用(上演用など)は全然足りなかったので、ルートヴィヒ2世に懇願してさらに借金をしている。 1876年、ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、ブラジル皇帝ペドロ2世などの国賓や、フランツ・リスト、アントン・ブルックナー、ピョートル・チャイコフスキーなど音楽家らの観衆を集め、ハンス・リヒター指揮『ニーベルングの指環』で第1回の音楽祭が開かれた。結果としては大赤字となり、舞台評もあまり芳しくなく、ワーグナー自身もひどい鬱になるほどの落ち込みようだった。また、大赤字が尾を引いたせいで1882年まで音楽祭は開かれず、『指環』も1896年まで上演されなかった。第2回の1882年以降は休みの年を挟みながらなんとか開催されたが、第一次世界大戦と、戦後の混乱の影響で、1915年から1923年までは開催されなかった。 再開後のエポックは、1930年のアルトゥーロ・トスカニーニ初出演であった。それまではドイツ人・ドイツ系指揮者しか指揮台に立たなかったが、リヒャルトの息子ジークフリート・ワーグナーとその妻ウィニフレッド・ウィリアムズの尽力で、初の外国人指揮者として招聘されたのであった。しかし、トスカニーニは忍び寄ってきたナチスの影響(ウィニフレッドは猛烈なヒトラー崇拝者だった)や、ヨーロッパの歌劇場特有の主導権争い(1930年にジークフリートが急死し、バイロイトでもこの手の騒動が起こっていた)に嫌気がさし、1931年限りでバイロイト出演を終えた。どさくさに紛れて、1931年初出演のヴィルヘルム・フルトヴェングラーも一時バイロイトを離れた。以降の音楽祭はナチスによる国家的援助を受け続け、第二次世界大戦中の1944年にも辛うじて(『マイスタージンガー』のみであったが)開催された。しかしそれが限界で、翌1945年にはバイロイトも連合軍機の空襲を受け、劇場は無事だったものの、ヴァンフリート館やリスト(バイロイトで亡くなった)の墓廟が破壊された。この年以降、音楽祭は1951年まで開催されなかった。
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