第二次大戦終結からイラン革命まで(1945~1979年)
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「日本とイランの関係」の記事における「第二次大戦終結からイラン革命まで(1945~1979年)」の解説
日本とイランの間で公式な外交関係が復活したのは、サンフランシスコ講和条約が調印された後の1953年だった。 1953年、日章丸事件が起こる。この事件が、イラン人が親日的である理由の一つと指摘されることがある。 1955年、パフラヴィー朝イラン帝国とイギリス、トルコ、パキスタン、イラク王国の5ヶ国で中東条約機構(METO)を結成した。加盟国のうちイギリス、イラクを除く3ヶ国はソビエト連邦と国境を接しており、中東版の北大西洋条約機構(NATO)、日米安保体制に位置づけられる反共ブロックであった。本部をイラクの首都バグダードに置いていたので、バグダード条約機構とも称された。同じ反共陣営の君主国同士として、正式な国交を樹立したばかりの日本とイランの二国関係は極めて良好なものであった。石油の輸出入を筆頭に経済関係が深まっただけでなく、両国の皇族がお互いに公式訪問もしている。(詳細は日本とイランの関係#パフラヴィー朝時代(1925~1979年)を参照。) 1958年にはイランの隣国イラクで王政打倒のクーデターが起こり、親米反共のイラク王国が崩壊。翌1959年には、ソビエト連邦との結び付きを深めたイラクが中東条約機構から脱退した。これにより、中東条約機構は中央条約機構(CENTO)に改称され、本部は東側陣営に寝返ったイラクの首都バグダードからNATO加盟国でもあるトルコの首都アンカラに移転した。引き続き反共陣営に留まったイランは、以後20年近くに渡って反共の親米国であり続け、相対的に中東における重要性を増して行った。パフラヴィー朝イラン帝国は秘密警察「サヴァク(ペルシア語版、英語版)」が共産分子や宗教分子を取り締まる独裁国のような一面も持っていたが、同時代に親米の独裁体制を敷いていた韓国(1993年まで軍事政権)や台湾(1987年まで戒厳令下の国民党一党独裁)、フィリピン(1986年まで戒厳令下の独裁体制)、南ベトナム(1975年の滅亡まで軍事政権)などとの良好な関係と同様、日米安保体制を主軸とする日本にとってイランは友好国であり続けた。 1974年、日本とイランはビザ免除の観光協定に調印し、両国の国民はビザなしでお互い自由に観光訪問をすることが可能になった。1976年6月、石油化学工業地帯として繁栄していたホラムシャハル(ホッラムシャフル)に日本国総領事館を設置することが定められ、翌1977年1月に総領事館が開設された。この時点で、日本とイランの友好関係は頂点に達したと言える。
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