第二次大戦終結からイラン革命までとは? わかりやすく解説

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第二次大戦終結からイラン革命まで(1945~1979年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:01 UTC 版)

日本とイランの関係」の記事における「第二次大戦終結からイラン革命まで(19451979年)」の解説

日本イランの間で公式な外交関係復活したのは、サンフランシスコ講和条約調印された後の1953年だった。 1953年日章丸事件が起こる。この事件が、イラン人親日的である理由一つ指摘されることがある1955年パフラヴィー朝イラン帝国イギリストルコパキスタンイラク王国の5ヶ国で中東条約機構METO)を結成した加盟国のうちイギリスイラクを除く3ヶ国はソビエト連邦国境接しており、中東版の北大西洋条約機構NATO)、日米安保体制位置づけられる反共ブロックであった本部イラク首都バグダード置いていたので、バグダード条約機構とも称された。同じ反共陣営君主国同士として、正式な国交樹立したばかりの日本イラン二国関係は極めて良好なものであった石油輸出入筆頭経済関係深まっただけでなく、両国皇族お互いに公式訪問もしている。(詳細日本とイランの関係#パフラヴィー朝時代19251979年)を参照。) 1958年にはイラン隣国イラク王政打倒クーデター起こり親米反共イラク王国崩壊。翌1959年には、ソビエト連邦との結び付き深めたイラク中東条約機構から脱退した。これにより、中東条約機構中央条約機構CENTO)に改称され本部東側陣営寝返ったイラク首都バグダードからNATO加盟国でもあるトルコ首都アンカラ移転した引き続き反共陣営に留まったイランは、以後20年近く渡って反共親米国であり続け相対的に中東における重要性増して行ったパフラヴィー朝イラン帝国秘密警察「サヴァク(ペルシア語版、英語版)」が共産分子宗教分子取り締まる独裁国のような一面持っていたが、同時代親米独裁体制敷いていた韓国1993年まで軍事政権)や台湾1987年まで戒厳令下の国民党一党独裁)、フィリピン1986年まで戒厳令下の独裁体制)、南ベトナム1975年滅亡まで軍事政権)などとの良好な関係と同様、日米安保体制主軸とする日本にとってイラン友好国であり続けた1974年日本イランビザ免除観光協定調印し両国国民ビザなしでお互い自由に観光訪問をすることが可能になった。1976年6月石油化学工業地帯として繁栄していたホラムシャハルホッラムシャフル)に日本国総領事館設置することが定められ、翌1977年1月総領事館開設された。この時点で、日本イラン友好関係頂点達したと言える

※この「第二次大戦終結からイラン革命まで(1945~1979年)」の解説は、「日本とイランの関係」の解説の一部です。
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