第二次大戦末期から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 07:21 UTC 版)
「クライペダ」の記事における「第二次大戦末期から現在まで」の解説
第二次世界大戦中、1944年末から1945年にかけて連合国の勝利が目前となった頃、東部戦線の戦線が近づくにつれてドイツ人住民は引き揚げを余儀なくされた。1945年1月28日、クライペダはソビエト連邦の赤軍に占拠された。大戦後、メーメル地域は東プロイセンの他の地域とは違いカリーニングラード州の一部とはされず、リトアニア・ソビエト社会主義共和国に編入され、リトアニア・ソビエト社会主義共和国領クライペダとなった。この地域に残っていたドイツ系住民は、シベリアに送られるかドイツへ追放される等した(ドイツ人追放)。 ソ連は、バルト海東岸の不凍港であるクライペダをヨーロッパ地域最大の漁業地域兼海軍の拠点にした。1950年頃までに、ソ連の海港として近代的な大造船所や漁港が再整備され、1950年代末までに人口は戦前の2倍にふくれあがり、そして1989年には20万3000人に達した。第二次世界大戦の影響から、ほとんどすべての住民はロシア、ベラルーシ、ウクライナそしてリトアニアといった地域から流入していた。はじめはロシア語話者が市政を担っていたが、スターリンの死後はリトアニアから他より多く人が集まったため、リトアニア人が最も多い民族となった。とはいえそれでも、リトアニアで人口10万人を超える都市の中ではクライペダが最もロシア語を母国語とする人の割合が大きい。 1970年代まで、クライペダは経済面でのみ重要視され、文化活動や宗教活動は最小限に抑えられ制限されていた。多くの教会は第二次世界大戦中に損害を受け、さらにソ連占領中に取り壊されており、ローマ・カトリック教会を広めようとした者は逮捕された。その後、文化活動は1970年代から80年代にかけて発展しはじめ、海の祭りなどが催されるようになっていった。 1990年にリトアニアがソ連からの独立回復を宣言し、1991年にクライペダ大学が設立される。今ではドイツ語とリトアニア語の2カ国語協会「Hermann-Sudermann-Schule」も作られている。
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