第二次大戦期における水メタノール噴射の活用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 19:21 UTC 版)
「水メタノール噴射装置」の記事における「第二次大戦期における水メタノール噴射の活用」の解説
第二次世界大戦期において枢軸国側の航空用エンジンに多く用いられ、ドイツではMW 50等が使用されていた。 過給圧を上げればエンジン出力も上がるが、圧縮された空気はより高温になるため、過給圧の上げすぎはエンジンノックを招き、最悪の場合はエンジンブローにつながる恐れがある。これを防ぐには、アンチノック性の高い燃料を使う・吸気温度を下げる、などの対策が必要である。第二次大戦期において、連合国側の航空機用ガソリンは100 - 120オクタン程度のオクタン価(現代の航空用ガソリン相当かそれ以上)があったが、枢軸国側は90オクタン前後(現代のレギュラーガソリン並)であったため、枢軸国側では入手不可能の100オクタン燃料は「91オクタン燃料 + 水メタノール噴射」で代用することとなり、大戦末期の日本軍およびドイツ軍の航空機用エンジンには、軒並み水メタノール噴射装置の装備が試みられた。 大日本帝国の航空機用エンジンでは、中島飛行機の栄31型(ハ115-Ⅰ)にて搭載が行われたが、大日本帝国海軍の主力戦闘機である零式艦上戦闘機では栄31型は「調整が困難かつ実効がほとんど認められないどころか性能低下の一因ともなる」と酷評され、同時期に減速遊星歯車の不具合に起因するプロペラ破損のトラブルに技術陣が掛かりきりになった事もあり、水メタノール噴射装置搭載機は試作1機で終わり、装置の多くは倉庫で埃を被ることになった。この結果、栄21型装備のまま生産された零戦五二型丙 (A6M5c) は武装・防弾のみを強化したため正規全備重量が3,000kg近くまで増加、その代償として運動性能・上昇力が大きく低下する結果を招いた。この混乱が治まった後に栄31型の審査は再開されたものの、審査終了が終戦間際であったため、栄31型装備の零戦が多数配備されるまでには至らなかった。同時期に生産された誉(ハ45)にも水メタノール噴射装置は搭載されたが、調整や整備以前にガソリンのオクタン価の低さも一因となり、海軍では満足に稼働させる事すら困難を極めたまま終戦を迎えている。 日本海軍の水メタノール噴射装置に対する無理解の一方で、大日本帝国陸軍は既に型落ちとなり始めていた一式戦闘機「隼」の強化策の一環としてハ115-Ⅰを隼に積極的に搭載、隼三型として1,153機を戦地へ送り出した。陸軍側の資料では隼三型を担当した大島設計主務は「速度は零戦の各型より優速となり、上昇力、航続距離、操縦性何れも上回り、劣っているのは武装のみ」と水メタノール噴射装置を好意的に評し、パイロットの証言としても「自分が生き残る事が出来たのは一式戦三型に載っていたからであり、他の機種では恐らく生き残れなかっただろう」と言わしめる程の効果を発揮したという。海軍が手を焼いたハ45搭載の四式戦闘機「疾風」についても、飛行第47戦隊「整備指揮小隊」のように、エンジンに対する深い見識を持つ指揮官が地上要員とパイロットの協同で整備に当たらせる事で終戦まで稼働率90%以上を維持した部隊も存在した。パイロットがある種の特権階級であった海軍と異なり、陸軍では伝統的にパイロットも手空き時に整備兵と共に機体の整備に参加する風習があり、これを最大限に活用したのである。同戦隊整備指揮班長刈谷正意中尉によれば、「47戦隊で100パーセント働いた」誉エンジンが他部隊で動かなかったのは「日本陸軍の整備教育が間違っていたから」であり、「疾風(誉)のせいじゃない」と回想している。また、日本陸軍は太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前よりドイツ第三帝国の高速試験機メッサーシュミットMe 209に対抗すべく、東京帝国大学航空研究所と協同で研三(キ78)の研究を進めており、過給機の改造と純メタノール噴射併用で、1943年10月5日の第二十四回飛行試験では計器指示速度682km/hを出し、計器誤差修正後の真速度は日本のレシプロ機中最速となる699.9km/hを達成した。この事からも日本陸軍の技術陣は水メタノール噴射装置の重要性を早くから理解していたものとみられる。
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