アシュラフ・カーイトバーイとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 統治者・君主 > マムルーク朝の君主 > アシュラフ・カーイトバーイの意味・解説 

アシュラフ・カーイトバーイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/04 23:18 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
アシュラフ・カーイトバーイ
قايتباي
ブルジー・マムルーク朝第19代スルターン
在位 1468年 - 1495年

死去 1495年
子女 ナースィル・ムハンマド
王朝 ブルジー・マムルーク朝
テンプレートを表示

アシュラフ・カーイトバーイ(? - 1495年)は、エジプトを支配したブルジー・マムルーク朝の第19代スルタン(在位:1468年 - 1495年)。

生涯

即位

ブルジー・マムルーク朝の第9代スルタンであったアシュラフ・バルスバーイの時代から仕えたマムルークで、1468年に第18代のザーヒル・ティムルブガーを廃して即位した。

オスマン朝への対策とマムルーク朝最後の安定期

この頃のマムルーク朝では内紛で国力は衰退し、国外では小アジアや東欧でオスマン朝が急速に拡大して矛先をマムルーク朝に向けつつあった。マムルーク朝では第14代・アシュラフ・イーナールの時代にオスマン朝と交戦していた諸国の援軍要請を拒絶するという外交政策の失敗から半ば孤立しており、単独でオスマン朝に対する軍備増強を進めていく。

カーイトバーイは権力闘争などですでに役立たずになりつつあったマムルーク制を廃し、黒人奴隷や下級身分の民衆らによる新たな軍制を定めたり、当時の最新兵器だった鉄砲を導入したりして軍備を増強した。この軍事改革は大成功であり、オスマン朝は何度もマムルーク朝に侵入したが、その都度に敗退してしまった。オスマン朝でも白羊朝との対立が激化し、1481年には名君と称されたメフメト2世が死去し、暗愚といわれたバヤズィト2世が即位してオスマン朝の拡大が停滞するという幸運にも恵まれた。とはいえ、連年の戦いや軍事改革には莫大な軍事費を必要としたため、重税やマムルークの給与減少と人員削減などを行ない、これが民衆や旧来の特権層にあったマムルークの批判を浴びて反乱がエジプト各地で勃発するなどした。

一方で建築などを主とする文化事業にも従事し、カーイトバーイの時代にはマムルーク建築ともいえる建築文化が発展している。

カーイトバーイの治世期には大航海時代も始まり、バルスバーイ以来の貿易政策ですっかり商人の没落が進んでいたエジプト経済は、ペストの流行による人口減少と農業荒廃と相まって経済に深刻な打撃を与えることにもなった。とはいえ、このカーイトバーイの歴代スルタンの中でも長期の27年の治世こそ、マムルーク朝が安定していた最後の時期でもあった。

関連文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アシュラフ・カーイトバーイ」の関連用語

アシュラフ・カーイトバーイのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アシュラフ・カーイトバーイのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアシュラフ・カーイトバーイ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS