ジェムとの争い、周辺諸国への対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:36 UTC 版)
「バヤズィト2世」の記事における「ジェムとの争い、周辺諸国への対応」の解説
1481年にメフメト2世がイタリア遠征途上で陣没すると、弟のジェムとの帝位をめぐる争いが始まる(もう1人の弟ムスタファは1474年に暗殺されていた)。バヤズィトとジェムの両方にメフメトの死を告げる使者が送られたが、縁戚の総督(ベイレルベイ)シナンによってジェムへの使者が足止めを受け、ジェムに先んじてイスタンブールに入城した。バヤズィトの入城に先立ち、ジェムの擁立を考えていた大宰相メフメト・カラマニーはイェニチェリに殺害されており、イェニチェリとメフメトの政策に反対的だった臣下に支持されて、1481年5月21日に正式に皇帝として即位した。その即位の経緯からイェニチェリに特権と恩賞を付与し、反対派の要求に対して譲歩する必要があった。 帝位を逃したジェムはブルサを占領して貨幣とフトバに自らの名を刻んで独立を表明し、バヤズィトに帝国の分割統治を条件とした和平を提案した。バヤズィトはジェムの提案を拒絶して対決の意を示し、戦前にジェム側の司令官の幾人かを調略し、同年6月20日のイェニシェヒルの戦いでジェムの軍を破った。敗れたジェムはエジプトのマムルーク朝に亡命し、白羊朝に亡命していたカラマン侯国の王族カシム・ベイと協力して再起を図るが失敗、エジプトを離れてロドス島の聖ヨハネ騎士団の元に身を寄せた。バヤズィトはマムルーク朝、聖ヨハネ騎士団、フランスのヴァロワ朝、教皇庁といったジェムが亡命した北アフリカ、ヨーロッパの諸勢力と交渉を行い、聖ヨハネ騎士団との交渉では騎士団側の要求に応じて多額の身代金を支払わなければならなかった。ジェムの子オウズ、ジェム派の高官を粛清し、1495年にジェムが病死した後に彼の生母、妻、娘を保護するが、男子の子孫はロドス島に残っていた1人を除いて全員が絞首に処された。 1495年にジェムが病死するまでの間、オスマン帝国と亡命中のジェムを保護したマムルーク朝の関係が悪化する。マムルーク朝とはジェムの処遇以外に、メッカの水路の修理を拒絶されたこと、インドからの贈物を携えた使節がマムルーク朝の領土を通行した際にジッダの太守に荷物を奪われたことで関係が険悪なものとなり、バヤズィトはドゥルカディル侯国のベイリクであるアラー・アッダウラがマムルーク朝のスルターン・アシュラフ・カーイトバーイと対立していることを知ると、アッダウラを助けるために1485年にアナトリア南部に派兵した。オスマン・ドゥルカディルの連合軍はマラティヤ付近でマムルーク朝軍と戦うが敗れ、かえってアダナ、タルソス内の城砦を奪われる。戦後にマムルーク朝から和平が提案され、和解を勧めるカリフの親書と共に奪われた贈物も届けられるが、バヤズィトはこの提案に対して進軍という答えを返した。オスマン軍はウズバク・ブン・タタハ率いるマムルーク朝軍に3度敗れる不利な状況にあったが、マムルーク朝も長期の戦争によって財政が悪化しており、1491年にハフス朝の仲介によって和議が結ばれた。
※この「ジェムとの争い、周辺諸国への対応」の解説は、「バヤズィト2世」の解説の一部です。
「ジェムとの争い、周辺諸国への対応」を含む「バヤズィト2世」の記事については、「バヤズィト2世」の概要を参照ください。
- ジェムとの争い、周辺諸国への対応のページへのリンク