ロシアのウクライナへの再侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:31 UTC 版)
「ソビエト・ウクライナ戦争」の記事における「ロシアのウクライナへの再侵攻」の解説
1918年11月11日に第一次世界大戦でドイツ軍、オーストリア軍が敗北すると、11月17日にロシアはウクライナ・ソビエト戦争の再開の準備を進め、モスクワでウクライナの傀儡政権「ウクライナ臨時労働農民政府」が成立する。ソビエトは再び、ウクライナ侵攻を計画した。12月19日にスコロパードシキーの政権が倒され、執政内閣政権が成立し、国号は再びウクライナ人民共和国になると、その翌日の12月20日、赤軍が宣戦布告なしでウクライナへ攻め入る。12月31日、1919年1月3日、1月4日、1月9日にウクライナ執政内閣が4度にわたりロシア政府に和解を提案するが、すべて無視されたため、1月16日にウクライナ執政内閣はロシア政府に対し戦争布告する。 1919年1月6日、ハルキウでソビエトの傀儡政権としてウクライナ・ソビエト社会主義共和国樹立が宣言された。 1月22日:キエフでウクライナ人民共和国と西ウクライナ人民共和国との併合を宣言する。 2月5日にソビエト軍がキエフを占領する。ウクライナの執政内閣は右岸ウクライナに避難する。ソビエトは、2月11日にウクライナに対して、一人当たり消費量を130kgとしてそれを超える「余剰穀物」の徴発を命じ、3月19日には82万トンの穀物の徴発を命じた。計画では1919年中に231万7000トンの穀物を徴発する予定であったが、実際に徴発されたのは42万3000トンにとどまった。 こうしたボリシェヴィキの強硬策に対してウクライナでは反発が強まり、ウクライナでは1919年4月に93回、5月に29回、6月に63回の暴動が発生。4月から7月までに合計300回の暴動が発生した。
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