甲斐山県氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 03:34 UTC 版)
上記の美濃山県氏の一族、山県家信が甲斐武田氏を頼り家臣となった。山県家信の孫にあたる山県虎清の時に武田信虎に諫言して成敗され断絶したという。『甲陽軍鑑』に拠れば、武田家譜代家臣である飯富虎昌は永禄8年(1565年)の謀反事件である義信事件において粛清されており、これを契機に虎昌の弟(甥とも)である昌景が山県家の名跡を継いだといわれ、文書上においても永禄9年8月頃を境に「山県」姓を称していることが確認される(なお、飯富氏の一族は事件後に文書上からは見られなくなる)。 山県昌景は信玄・勝頼期の譜代家老として活動が見られ、主に信玄側近として武田氏朱印状奏者や外交取次を務めている。永禄12年(1569年)には駿河国江尻城代に任じられ武田領国のうち駿河・遠江方面の支配を担当しているが、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは昌景が討死する。 家督は子の山県昌満が継いでいるが、江尻城代の後任は河内領主の穴山信君となり、昌満は駿河田中城代に転じている。昌満は1582年の織田信長の甲州征伐により捕らえられ処刑された。 その後、一族は散り散りとなり、武田遺臣として越後国の上杉氏に仕えた者、大坂の陣で討死した者、徳川家臣となった者、帰農した者などがいる。 江戸時代には甲斐北山筋篠原村(山梨県甲斐市)出身の山県大弐が先祖を山県氏としており、現在もその家系は続いている。
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